2012年1月29日日曜日

ドキュメンタリー演劇というカテゴリについて

ドキュメンタリー演劇というカテゴリがある。本当にあるかどうかは別としてそういった呼び名があり、そう呼ばれる作品やそれを専門とする劇団があるとされている。俳優がその天分や技量を駆使し与えられた役を演じるのが通常の演劇だとすると、ドキュメンタリー演劇の場合は、本人がそのまま本人として舞台に立ち、話たり動いたりする、ということになっている。

何ともウブな受け止め方だと思う。だって、目の前の舞台に立っている人間が「本人」かどうかなんて客席からは判別しようがないじゃないか。チラシやパンフレットに脚本家のクレジットが無かったとしても、台本は存在しないなんてアナウンスがあったとしても、そんなの嘘かもしれない。いかにも本人が本人として在るように見せかけるための詐術かもしれない。

つまり、「ドキュメンタリー演劇」なんてものは(少なくとも観客にとっては)存在しない。

(追記1/29)「脚本」もまた存在しない(確かめようがない)と言いうる場合がある


-------------------------------

演劇を観てて泣くことがある。
演劇を観て流す涙には二通りある。


舞台上で起こっていることは、ここではないどこか、今ではないいつか、に起こった出来事の再現だ。つまり、近未来だろうかパラレルワールドだろうが設定に関係なく「過去」のことを扱ってる(じゃないと再現できない)。そして観客とは、その愚かな(演劇とは愚かさについての芸術である)出来事そのものには立ち会えなかった、悲劇を止めることが出来なかった者たちのことであり、その悔しさゆえに涙を流す。


目の前の出演者が一生懸命頑張っているのを見て、夏の甲子園的なノリでホロッとくる。

-------------------------------

ドキュメンタリー演劇なんてものは存在しないが、演劇にはドキュメンタリー要素がある。目の前でやってるんだから当たり前だ。
つまり、<フィクション - ドキュメンタリー>という二項は、対立ではなく、カフェオレを構成するコーヒーとミルク、それぞれの濃度みたいなものとして捉えたほうが良い。どっちに反応するかは作品の方向性にもよるし、個々の観客の持つ受容パターンにもよる。どっちに反応して泣いてるのかよく分からないようなのが素晴らしいのは言うまでもない。でも個人的には、フィクション寄りで泣ける人のほうが好きだな。