2014年2月26日水曜日

ジョイナス

先日蓮沼くんの演奏を聴きに行ったら途中でいわゆる「観客参加型」の企画(そういうコンセプトの楽曲)が挟まれてて、そのときは楽しんだけど色々と思うところはあった。終演後、ハシゴ観劇のため足早に劇場を出たところで知り合いのプロデューサーにばったり出くわし開口一番「ちょうどお前のことを考えてたところだ」と言ってきたのでギョッとしたのだけど、まあ、わからんでもない。

ところで「参加型」という言葉は「観客参加型」の短縮形として使われることが多い気がするのだが矢張りこれらは違うというか、大きな意味での参加型の中に、観客参加型だの、そうじゃない参加型だの、色々とあると思う。

色々とある?じゃあ列挙しろよ、なんて言われると窮してしまうのだが、これはぼくの思考の癖のようなもので、「それしかない」とか「AかBしかない」と言われると、反射的にC(第3項)は無いのか?と疑問に思い、場合によっては嘘でも構わないから捏造したりもする。そうすることで(既存の図式に負荷を加えることで)ヘンテコな案を考えようとしてきたのだ。

ぼく自身がかつて建築を学んだことを抜きにしても、演劇と建築にはたくさん共通項があって、だから(厳密さを犠牲にすれば)アナロジーも成り立ちやすいのだが、そんな類似点の中でもいちばん大きなのは、どちらも共同作業で作られる、ということではないかと思う。

演劇サークルでの経験はもちろんのこと、建築のほうでも、ウチの母校は大学祭のたびに(しかも年に二度ある / おめでたいよね)学生有志で仮設建築物を建てていたので、そういう「みんなでワイワイ」な雰囲気に耽溺するにはいい環境だった。ただ、このときは、あり余る時間を費やして議論したりモックアップ試したり、そして最終的にはほとんどその場のノリで物事を決めてたので、合意形成のプロセスについてはそれほど自覚的でなかったかもしれない。

一方で、ぼくが受けた教えは建築(学部の講師や先輩から)にしても演劇(サークルの先輩から)にしても、演出家/建築家という首謀者がいてこそ、みたいな内容だったので、建前としてはずっとその枠内で考えてたし、だからこそ生まれたナイスアイデアもたくさんあったんだけど、それからだいぶ時間が立って、その間には携帯電話やインターネットが普及したり、オウム真理教がテロを起こしたり、政治も民主党が政権とって、それで地震があって原子力発電所が爆発して、そしたらまた自民党になったり、中東では民衆の反乱があったりと、組織や事業の成り立ち、そしてその運営について再考を強いるような出来事がずいぶんあった。

その間にぼくは大学を出て、工事現場で働いて、そのうち悪魔のしるしの活動が始まって、「搬入」が色んな所に呼ばれるようになって、その背景には地域おこしアートのことやリレーショナルアートのことがあることも何となく知って、それでますます「参加」って何だということを考えるようになっていった。

・参加といえば聞こえはいいけど実は搾取なのでは?
・参加といえば聞こえはいいけど成果物ショボくない?
・参加といえば聞こえはいいけど、って、なんで参加だと聞こえがいいの?

いま「搬入」について過去の記録をまとめていたり、他にもこの問題に関連した原稿を抱えてるので、だんだん明らかにしていきたいと思います。