2012年3月11日日曜日

劇場の構図 1-2



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第1章-2 観ること、観られること

空間を問う前に、まずは「芸能」というものについて簡単な定義が為される


「生身の人間が自分自身の声や肢体をメディアとして、或いは変身させて、演じ出すもの」

続けて、

その行為の根幹には演技がある。そして、この演技とは常に観客のまなざしを意識することによって成り立っている。

と規定される。
また、その反論として梅棹忠夫による「しろうと芸能」「独酌型芸能」「宴会型芸能」などの区分を紹介し、「観客なき芸能への志向」「個別化、個人化した主客一如の境地」の存在を認めつつも、これらもまた「何らかの規範を前提とする」限りにおいて「それを習得するという意味でやはり観られることを欲しているのである」とする。

つまり、

時間・空間の一断面ではひとりでするように見られる芸能でさえ、時空間の枠を広げてみると、すること、観ることとの関連を見出すことができるのである。

 と、芸能では観る側の存在が不可欠であり、いっけん不在なようであっても、どこかに、言わば<想像的な観客>の視点が設定されていると説く。演じ手と観る側の意識の交歓を経済活動に置き換えてみても、これは説得力があると思う。商売人や政治家は必ずしもいま眼の前にいる客にだけモノを商っているのではない。そこには想像的な未来の観客(消費者)が措定されていることも多々ある。

このような前提の上で、筆者は考察の口火を切る。

「芸能をする」という行為によって、時空間に人と人との精神の交流が広がるという現象に、より積極的な意味を与えたいと考える。そして、そのような集団との関わりという側面を重視するなら、ひとりでする芸能よりはむしろ、人間集団の結びつきが、ある時空間に凝縮されたものとして、集団で行われる芸能を考察の中心に据えるべきではないか。芸能の上演によって生成される空間の豊かさは、むしろここにあると思われるからである。

余談だが(というかこのシリーズたぶんずっと俺の余談ばかりになると思う)、友人でもある建築家、藤原徹平氏(フジワラボ代表+隈研吾建築都市設計事務所 兼務)は、「アクティビティによって質的変化する空間に興味がある。例えば電車の中とか」と俺に語ったことがある。もうだいぶ前の話なので本人も忘れてるかも知れないが、その後の彼の、建築設計だけに留まらない多様な活動を見るにつけ、その心意気をいまだ保持しているように思える。今後の活動も引き続き応援したい。

閑話休題。
(どーでもいいけど「閑」って漢字いいよね。閑谷学校とか字面だけでグッとくる)

さて、演者+観客によって構成される上演空間を、その質によって筆者は三種に区分する。以下、列挙してみよう。


1 
仲間内で楽器を演奏したり、或いはお茶会を行うような場合である。ここでは参加者すべてが「する」行為の当事者であり、すると互いにその行為を見合っている。即ち、観ることと、することは、成員相互に同じように作用しあい、トータルな芸能空間は、同室なひとつの集団によって行われる。従って、する行為のための空間も、観る行為のための空間も分化せず、融合された状態に置かれている。






次に考えられるタイプは、自らすることに意味を持ちながらも「することを観せる」「することを観る」という行為が表に現れくる場合である。具体的な例としては、今日のカラオケやディスコのようなもの、または盆踊りのようなもの、あるいは過去のものでは、バロック時代の王宮の仮面舞踏会などが挙げられよう(中略)そこでの芸能行為は、空間的にすることを主体とするグループと、観ることを主体とするグループに分かれる傾向が窺える。ただし、時間の経過を考慮に入れると全体としてはそこに参加する成員相互の基本的な関係は同質なのが特徴である(中略)こうした集団の中では仮に観るだけの存在、するだけの存在が生じた場合、それはむしろ異質な存在として集団からは排除される傾向すら持つ。









いわゆる「観る芸能」と呼ばれるものである。ここでは、トータルな芸能行為は、芸能をする行為と見る行為の二つに分極化され、それぞれ演技者と観客という、異質な集団によって担われる。職業芸能集団によって行われるほとんどすべての芸能が、この範疇に属するといっても過言ではあるまい(中略)第1のタイプでは「観ること」よりもむしろ「すること」のほうが強調されていたのに対し、「するのを観せ」「することを観る」という集団相互の関係が全体の芸能行為を強く規定し、「すること」自体の意味は「する」側の集団固有の問題とされ、観客も含めた芸能空間全体を支配する意識には至ることがないのが特徴である。






といった具合である。
ではこれらを踏まえて気になることをポツポツと呟いていこう。


これらの区分(1→2→3)は、そのまま芸能を含む文化一般の変遷にある程度重なるのではないだろうか。例えば住宅建築というものを例にとってみれば、

地域共同体成員によるセルフビルド

得意な技術を持つ専任者の登場(セミプロ、半農大工など

住まい手と建設業者(建築家やゼネコン)の分離

といった具合である。
批評というものが成立するのも(3)の過程からだ。



(2)の区分で例示される盆踊り、ディスコ、カラオケ、舞踏会などが総じて、いわゆる「ナンパスポット」であるのは興味深い。よってこの場合、お気に入りの相手をゲットした際には、空間そのものから二人して「フェイドアウト」することも可能であり、空間そのものがオープンエンドである。つまり「作品」として鑑賞されるのではなく、むしろ参加者の出会いの場としての側面が強い。上演される芸能は、次のステージのための一つの契機として設定されている。むろん、発生当初からナンパが前提とされていたわけでは無いと思うのだが、空間の緩さが出入りのし易さをもたらし、そのままナンパの場への移行を可能にしたのではないか。

これは後々にも触れられることだが、神に捧げる儀式としての芸能の場において、より優れたパフォーマンスを発揮したものが栄誉に浴す(古代南米文明では生贄として首をはねられたりする 笑)という習慣の名残なのかも知れない。


(1)(2)に共通しているのが、「優れたパフォーマンス」のイメージが全員に共有されていることだ。明確な観客が居ない代わりに、「理想的な芸」がひとつの規範として場を支配しており、その境地への隔たりで芸の優劣が判断される。多様な参加者が集まる場においてはこのケースは成立しにくいだろう。


再び課題図書の引用に戻る。
筆者は現在においては上演にしろ研究にしろ(3)のケースが支配的であること指摘する。

今までの芸能空間の分析は、完成された芸を持つ職業的芸能集団を対象とする事が多かったせいか、どちらかというと、第三のタイプを基本として研究されてきた。ギリシア・ローマ演劇をはじめとして、能舞台や歌舞伎劇場のように完成度が高い、固有の劇場という型を持つ空間の考察では、観る側と演じる側は、明らかに異質な存在として扱うことを前提とされてきた。こうした扱いは、無意識のうちに、芸能空間の分析を能動的な行為者としての演ずる側の空間、即ち舞台に比重をかける傾向へと繋げがちであった。


観客の空間は、演技の空間に付随するものとして消極的に扱われ、舞台の形態との積極的な関わりを論じたり、観る意識の違いによって観る側の空間がどのように変容するか、といった観点に立って論じられることは少なかった。

筆者はその原因を、近世以降一般化したプロセニアムステージ型劇場、ならびにそれを基盤とする作品上演の隆盛に求め、返す刀で批判する。

しかし、本来、芸能空間というものは、そこに参加する全ての人々の意識や行動が互いに作用しあい、その相互作用の中からトータルに形成されるものである。

そして、この観点から言えば救いようのない(3)の形態についても、

あとで詳しく観察するように、舞台と客席は、様々な関わりにより互いに影響を及ぼしあうもので、決して一方だけで完結した空間ではありえない。

 と、次項から始まる、より具体的な芸能空間形式への考察を予告する。

■■
 例によって、ここからは独り言。

この本を読み進めながら思い出してTwitterに書き込んだのが、アメリカを代表するロックバンド(メタルバンド)であるMETALLICAの試みだ。

まずはこの写真+動画を。





彼らが一介のヘヴィメタルバンドから世界の頂点に君臨する存在に躍り出るきっかけとなった大ヒットアルバム「METALLICA(通称:ブラックアルバム)」発売後のツアーの写真である。舞台が観客席と接する辺を可能な限り増やしつつ、またその内部に「SNAKE PIT」と名付けられた特別席を設えた特異な設計だ。

(撮影されたのは90~91年くらいだと思うが、このツアー確かとんでもなく長かったので、もうちょっと時代が下るかも知れない)

以下、自分がTwitterに記した言葉をそのまま貼り付ける。


引き続き「劇場の構図」を読み進めているが、ここで意外に重要なのがMETALLICAだ。ロックコンサートの空間構成に関して一時期の彼らは様々なかたちを試みていた。これは元々ファンとの結びつきを重視するインディーズシーンから出発した彼らならではのやり方だろう。

 ネット以後、それは動画配信などの方向へシフトしていったが、その直前、90年代初頭に彼らが提案した[SNAKE PIT]は当時の自分にも衝撃だった

巨大化するバンドのせいでインディーズ文化から離れつつあった彼ら、の出した誠実な回答がこのSNAKE PITなのだと思う。

民衆芸能から生まれた[劇場]がその後ワーグナーの手によって完全に「去勢=芸術作品化」される過程を、METALLICAもまた反復している。

高校生当時危口くんはヨダレを垂らしながら憧れてたんだよコレに。ちなみに全体的な舞台-客席の関係も完全包囲型です。360°対応のために確かドラムセットを2~3つほど置いていたと記憶している。

「劇場の構図」の論に従えば、同心円の中心に最も興奮度の高い要素を配すのが包囲型のセオリーなので、ここに自分たち演奏者ではなくコアなファン(確か、ファンクラブ会員から抽選で選んでたはず)を招き入れるというのは、態度表明として非常に説得力あるものとなってますね

「劇場の構図」が設定する(1~2~3)の芸能空間図式の区分で言えば、このSNAKE PITは、(2)と(3)の間にある微妙な境界に位置している。

80年代初頭、米国ではマイナーだったヘヴィメタルというジャンルは、まだ大きな、商業的なシーンを持ち得ず、テープトレーディングやファンジン発行など、熱心なファンによる草の根的な活動に支えられていた。自らもまたそのような熱狂的メタルマニアだったラーズ・ウルリッヒ(METALLICAのドラム奏者、ヴォーカル/リズムギター担当のジェイムス・ヘットフィールドと共にバンドのリーダー的存在)は、その後バンド活動が巨大化するに連れて失われていく草の根インディーズ的な連帯との繋がりを諦められず、ひとりで頑張って模索し続けていたのだろう。その結果としてのSNAKE PITなのだと俺は考える。泣けるじゃありませんか。実に泣かせるじゃありませんか。

上↑ででっち上げた、住宅建築の流れをここで当てはめてみると、

 好き者同士が愉しむ民俗芸能だったメタル
(演奏場所は小さなライブハウス、ガレージなど。演奏者/聴衆が未分化な状態)
冴えわたるパフォーマンスをするバンドの登場
(部族内の英雄として祝福される)
大ヒットによってヌルい観客もライブに来るようになる
(昔からのファンは面白くない)

→その救済法としてのSNAKE PIT(コアなファンだけが入場を許される)

ってことになるだろうか。

SNAKE PIT に関しては例として面白すぎるので、今後も引き合いに出しつつ分析していきたい。

次回 1-3 空間芸能の基本形 に続く。

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