2012年3月18日日曜日

劇場の構図 1-2 追記





劇場の構図 1-2 の追記

次項(1-3 芸能空間の基本形)に進む前に、前項(1-2 観ること、観られること)をまとめながら考えたことなど追記するです。


筆者清水裕之は芸能空間をその性質によって3つに大別してました。

1 未分化型 
みんな「する側」。相互に見せあいッこ。純粋に「観る」だけの人は居ない。
お茶会など。

2 可変型 
その時その時で「観たり/観られたり」。
ディスコ、盆踊りなど。

3 分割固定型
「する」「観る」が完全に分かたれ、それぞれが専門家してる状態。

で、これって政治のあり方と似てんじゃね、と。
つまり、上演空間はそのまま政治空間の縮図として読めるのでは、と。
representation (表象=代理)なんて言葉もありますしね。

俺なりに強引に当てはめてみれば↓

1 全員参加で意思決定する田舎の寄り合い
2 持ちまわりで代表を決める(代表制)
3 専門的政治家(国会議員とか) 
って感じでしょうか。


何が言いたいかというと、劇評とか読むとしばしば目にするんですが、「若いもんは政治に興味持たなすぎ」的な論調ありますよね。で、俺は思うんです。ホントそうなのかな?って。

確かに物語内容レベルで見れば(つまり戯曲だけ読めば)他愛もない身の周りの話が多かったりするのかも知れないのですが、いざ上演、って段になれば、「客席の設計」を通して、個々の作家/カンパニーの持つ政治意識が現れてるんじゃないかな、と。

例えばこんなのや↓



こんなのや↓



もいっちょ(自分のばかりでスイマセン)



まあ、どれもこれも戯曲らしい戯曲を持たない作品なので("作品"ですらないかもしれん)、いまひとつ説得力に欠けるかも知れないけど、ともあれ空間演出と政治意識はけっこう、というかダイレクトにリンクしてると思います。

前項で俺は METALLICAを引き合いに出しつつ、演者と観客の関係、そしてその現れである SNAKEPIT の例を挙げましたが、↑上に挙げた快快や悪魔のしるしのパフォーマンスも、観客との関係にこだわってるように思えます。つまり、実はけっこう政治的だと。

「政治」って言葉は大げさかもしれないから、ちょっと言い換えて、仕掛ける側とお客さんの双方によって発生する「シーン」とか「場」 への意識、とでもしておきますか。

快快は、よく「会場にDJとか居てクラブっぽい」と、なぜかシャレオツなイメージで括られてるけど、よくよく考えてみればこれスゴイことだと思うんすよ。何が、って「クラブ」的であることが。
 とりあえず現在のクラブ/ダンスカルチャーの起源的なアレ↓

セカンド・サマー・オブ・ラブ


俺はこの辺りの文化については素人なんで詳しいことは知らんですけど、それでも言えるのは、クラブカルチャーって、それまでみんなが前提としてた「作家性」「作品性」へのアンチとして生まれてますよね。ステージなんて無くて全てがダンスフロア。水平に広がる空間。間違っても「いと高きステージより下賜される偉大な演出家の意志!」っていう垂直的なイメージじゃないですよね。

「鑑賞」「作品」って概念は二つで一つのセット、どちらかが欠ければもう一方が成り立ちません。対して「参加」「出来事」という軸があります。で、俺はその二つのあいだをフラフラとさまよっているわけです。

これに関しては、「悪魔のしるし」の活動を開始する前にバンド活動をやってたことも影響してるかも。俺がやってたバンドはハードコアパンクというジャンルで、この界隈もクラブカルチャー程ではないけれど(しかしその起源のひとつと言えるかも知れない)、草の根的、非作家的、非作品的なシーンなんですね。バンド活動の各段階における非営利的な実践が重視されます。

ライブハウスにはいちおうステージとフロアがあるけど、フロアを埋めるのも(うちのバンドはそんなに埋められなかったけど/笑)、たいていはバンドマン。前項の区分に従えば(2)可変型に近い構図。

この話、もうちょい続けられると思います(てなわけで続く