こないだ別府と国東半島に行ってきました。
別府プロジェクトや国東アートプロジェクトを体験したくて。
2010年に瀬戸内国際芸術祭(島キッチン企画)で「搬入プロジェクト」を上演して以来、地方と観光、そしてアートとの関係に興味を持ち始めていたこともあり、いろいろ考える材料を持って帰ってきた感じです。
豊島に関しては基本的に良い思い出しかないのですが、そう簡単には割り切れない印象深い出来事も幾つかあって、まずは何といっても産廃不法投棄問題、もうひとつは(産廃に比べれば些細な事ですが)現地の方に「アートのひと」と呼ばれたこと。
「お兄さんも、アレか、アートのひとか?」
そういって声を掛けてきたオジさんに他意は無かったと思います。が、その屈託の無さも含め、この言葉は自分の中にしこりとして残りました。
アーティストではなく、「アートのひと」。
この響きの違いこそが、我々の日々の暮らしとアートとの距離感を表しています。しかし、だからといって島の人から「アーティスト」と呼ばれたかったか、と問われれば、そうでもない気がするし、正直いって、今のところはどうすればいいのか、どうなればいいのかよくわかりません。
瀬戸内国際芸術祭総合ディレクターである北川フラム氏は、どこかのインタビュー(もしくは彼に関する報道記事だったかも)で、芸術祭の予算に関して「文部科学省ではなく国土交通省から引っ張ってきたことが重要なのだ」と発言していました。つまり、文化事業としてではなく、観光事業の一環として芸術祭を組み込むってことです。そういえば「観光立国」なんてスローガンもありますね。国が仕掛けるキャンペーンと協働することでいろいろご利益があったのでは、と推測します。
急速に高齢化、過疎化の進む離島や僻地の、その「遅れ」「寂れ」をひとつの観光商品として売り出すこと、そしてその引き立て役としてアートが用いられること。ちょっと乱暴な整理ですが、こういうことだと思ってます。別に悪口じゃないです。
「近代の特徴のひとつは、本物(オーセンティシティ)はどういうわけか失われ、それはほかの文化の中で取り戻すことができるのだ、という信仰である」(ジョン・カラー)
我々は日々の暮らしに倦んだとき、「ここではないどこか」に自分を充足させてくれるものを求めます。そして求められる「ここではないどこか」の中身が、ディズニーランドなどのレジャー施設ではなく、離島や僻地という、いかにも「本物」っぽい対象へと変化してきているのが、何か、こう、示唆的だと感じています。
「本物」志向といえばアートもそうで、と言ってもアートのことをそれほど知らないので大したことは言えませんが、とにかく「リアル」「リアリティ」という言葉が随分幅を利かせている界隈であるとは言えます。なにか「本物」を感じさせる対象を求める人たちがいて、彼らは、アートや僻地の自然、寂れた集落に引き寄せられるのです。
で、このへんから演劇、特に「ポスト・ドラマ」とか「ドキュメンタリー演劇」などと呼ばれる運動の話と繋がってくるような気がします。
気が向いたらまた続きを書いてみます。
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