2012年1月30日月曜日

TWS ジョン・ケージ ナイト ご案内

1/30(月)~1/31(火) にかけて24時間ぶっ通しで開催される企画

トーキョー・エクスペリメンタル・フェスティバル
オールナイト・フィナーレ

の、現時点でわかってる範囲内でのご案内です。
沢山の企画が詰まってるので全容は俺もわかりません
詳しくはこの記事のいちばん下↓に貼りつけてあるTWSツイッタ情報を御覧ください。

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で、ウチらは、まあ、下っ端だし出番も深夜1時頃ですので深夜番組的なノリで

ジョン・ケージ できるかな ~~
ケージ ファンクラブ(北野ファンクラブ的な意味で)

みたいなことをやろうとしてます。
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■ 出演メンバー
荒木悠
ヌケメ
森翔太
危口統之

■ 番組内で予定しているコーナー(明らかに失敗しそうなものも含む)

プリペアドカラオケ その1
サーキットベンドという技術を使ってカラオケの機械を懲らしめながら歌ってみる

プリペアドカラオケ その2
レーザーディスクでグリッチ体験して、なんかいい感じの壊れ方を探ってみる

プリペアド会話
森さんが機械に録音した自分の声を相手に延々と会話してみる

4分33秒 無音チャレンジ
例の曲を演奏中、音を立てないように気をつけながら無茶なことをやってみる

などなど
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・最後に・
Ustream放送できるかどうか調整中です
(※注 放送するのは俺らの出し物だけです)

他の参加者さん(豪華)のご活躍は現地でのみ鑑賞可能!
当日券もあるので、詳しくはコチラ↓をご参考になさってください。
http://www.tokyo-ws.org/archive/2011/11/-6-soundartperformance-part-2.shtml

ではではー お楽しみに~


2012年1月29日日曜日

形式と素材

昨日の続き(ドキュメンタリ演劇云々)

先日友人の主催する、建築系のトークイベントに同席する機会を得た。
http://itosarotu.blogspot.com/2011/12/blog-post_02.html

この経験を踏まえて整理すると(といっても整理という行為の常でいろんなモノを見捨てるに任せているわけだが)

環境=出演者本人=ドキュメンタリ

建築物=登場人物=フィクション

と、言えば言える。


イベント登壇者である建築家青木弘司さんは、設計者として対峙する敷地環境(自然)を「絶対的な他者」とした上で、設計主体の思惑を越える制御不能な要素をいかに内部に取り込むことが可能か、といったお話をされていた。そして、そのためには形式化、抽象化が重要であるとも。

これを舞台に当てはめて考えると、演出や振付の形式化が(パフォーマー個々人の持つ)自然の拭い難さを露呈させるという意味では古典的なダンスや能楽の在り方を想起させる。ってこんな素直な理解でいいのかな??

また、コレに関して、コメンテイターとして参加していた建築家の平瀬有人さんからは、スイスで活動されていたご自身の経験を踏まえつつ、形式化と言っても実際に設計し建築するのだから材料(マテリアル)の議論が抜けているのは疑問、と指摘があった。

 この指摘は重要だと思う。まだ上手く舞台芸術分野への翻訳ができてないのだが、マテリアルの問題は、例えば俺と捩子ぴじん(振付家/ダンサー/現在無職)さんが度々話題にする「去勢」の問題とつながっている気がする。

 (多分まだ続く)

ドキュメンタリー演劇というカテゴリについて

ドキュメンタリー演劇というカテゴリがある。本当にあるかどうかは別としてそういった呼び名があり、そう呼ばれる作品やそれを専門とする劇団があるとされている。俳優がその天分や技量を駆使し与えられた役を演じるのが通常の演劇だとすると、ドキュメンタリー演劇の場合は、本人がそのまま本人として舞台に立ち、話たり動いたりする、ということになっている。

何ともウブな受け止め方だと思う。だって、目の前の舞台に立っている人間が「本人」かどうかなんて客席からは判別しようがないじゃないか。チラシやパンフレットに脚本家のクレジットが無かったとしても、台本は存在しないなんてアナウンスがあったとしても、そんなの嘘かもしれない。いかにも本人が本人として在るように見せかけるための詐術かもしれない。

つまり、「ドキュメンタリー演劇」なんてものは(少なくとも観客にとっては)存在しない。

(追記1/29)「脚本」もまた存在しない(確かめようがない)と言いうる場合がある


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演劇を観てて泣くことがある。
演劇を観て流す涙には二通りある。


舞台上で起こっていることは、ここではないどこか、今ではないいつか、に起こった出来事の再現だ。つまり、近未来だろうかパラレルワールドだろうが設定に関係なく「過去」のことを扱ってる(じゃないと再現できない)。そして観客とは、その愚かな(演劇とは愚かさについての芸術である)出来事そのものには立ち会えなかった、悲劇を止めることが出来なかった者たちのことであり、その悔しさゆえに涙を流す。


目の前の出演者が一生懸命頑張っているのを見て、夏の甲子園的なノリでホロッとくる。

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ドキュメンタリー演劇なんてものは存在しないが、演劇にはドキュメンタリー要素がある。目の前でやってるんだから当たり前だ。
つまり、<フィクション - ドキュメンタリー>という二項は、対立ではなく、カフェオレを構成するコーヒーとミルク、それぞれの濃度みたいなものとして捉えたほうが良い。どっちに反応するかは作品の方向性にもよるし、個々の観客の持つ受容パターンにもよる。どっちに反応して泣いてるのかよく分からないようなのが素晴らしいのは言うまでもない。でも個人的には、フィクション寄りで泣ける人のほうが好きだな。




2012年1月21日土曜日

中庸

先頃の公演、神尾くんが踊るシーンでは、たまたまネットで見つけた四つ打ちのピコピコした音楽を使ったのですが、perfumeでもいいのではないかと思ったし、今でも変えりゃよかったと思わぬでもない。それと関係があ有りそうで無いけど実は有るかも知れない昔のブログ記事など再掲しお茶を濁して啜ろうと思う。
 
――――――以下再掲(旧ブログ 2009年 2/24の日記)――――――  

    メタル
   /   \
クラシック ― PERFUME


最近の音楽ローテーションが上図の如きトライアングルを形成していることに30代男子として若干の気恥ずかしさがあるにはせよ、もういちいち新進気鋭の若手バンドなどに気を配ったり好きでもないジャズを理解しようと無駄な努力をするつもりもなく、ただ欲求に任せたままCDをあれこれと入れ替えている。ついでにいうと読書についても同様の傾向が見られ、もう古典全般と、現代モノはマンガと幻想文学だけで十分な気がする。

子供の頃から父親に言われてたのが「選択肢を増やしなさい」ということで、しかしこれが片手落ち、決断力を伴わない選択の多様性など徒に気を悩ませるばかりで何の役にも立たない。かといって今更わが家の教育方針を巡って父を指弾する気など毛頭なく、結局は自分が、選択肢を増やしまくってどれにしようかな と思案する甘美な時間を持続させることばかり考える自分が愚かなだけだ。

そんなこんなでPERFUMEだが、目下のところ最新である楽曲「DREAM FIGHTER」の歌詞がえらいことになっている。レビューサイトをざっと見渡したところ、いままでの言葉遊び的面白さが消えて、いわゆるJ-POP的「頑張れソング」になってしまったことに対する批判があるようだが、この歌詞、どうやらそれほど生ぬるいものとは思えない。

ねえ みんなが言う「普通」ってさ
なんだかんだで 実際はたぶん
真ん中じゃなく理想に近い
だけど 「普通」じゃまだ物足りないの

このままでいれたらって思う瞬間まで
GO! GO! GO! GO! 遥かこの先まで

最高を求めて 終わりのない旅をするのは
きっと 僕らが 生きている証拠だから
もしつらいこととかが あったとしてもそれは
キミが きっと ずっと あきらめない強さをもっているから
僕らも走り続けるんだ YEH! こぼれ落ちる
涙も全部宝物 oh! YEH!
現実に打ちのめされ倒れそうになっても
きっと 前を見て歩くDreamFighter



ここでいわれる「普通」とは、孔子がいう「中庸」と同義といって差し支えないだろう。それについては以前の日記でちょっと書いた。

理想としての「普通/中庸」を放棄したあと我々に残される選択肢といえばもう、外部へ外部へという資本主義の論理で突っ走りまくる領土拡大化とそれに付随して発生する外部の捏造並びにそのあとに来る虚構としての再領土化しかないわけだが、もちろんそれを駆り立てるのは「このままでいれたらって思う瞬間」を 目指す力である。

で、その「このままでいれたらって思う瞬間」だが、あくなき侵略を、たとえそれが自作自演であってもやめられない資本主義にとってそんな瞬間など許されるはずもなく、もしあるとすればそれは端的にいって死であるほかない。最高を求めるがゆえに旅の軌道は終わりのない漸近線を描き始める。それを終わらせることができるのは唯一の現実であるところの死だけであり、そのように生きられる生のあり方こそまさに虚構=DREAMといえるのではないか。

…と、それっぽいインチキ批評がかけてしまうのも読書の効能だ、などという気はサラサラない。

2012年1月19日木曜日

内容(内輪ウケ)に就いて

なるべく自己弁護にならぬよう気をつけて書こうと思っていますが、そもそもの動機がズバリ自己弁護なので隠し通せそうにもありません。そして酒(アサヒ黒生350ml缶)も入っている。

おかげ様でなんとか公演も終えることができ、その後は、感想をまとめてもらったサイトを、褒め言葉には嫌らしい笑みを浮かべ、貶し言葉には舌打ちをし、しかしそもそもの性格が、とにかく言及してもらえることに、もらえさえすれば喜びと安堵を覚えるような残念さなので、つまり総じて笑を浮かべながら眺め(面倒くさいのでこの段ここで終了)

ご批判いただいた中で多かったのは、やはり、内輪のノリにも程があるだろ、的なもので、じっさい作品内容としては、出演者、関係者、そして俺自身の具体的かつ直截的な情報が濃度高めに混入させてあるし、直接俺のことを知ってる人のほうが楽しめそうだし、ご批判はいちいち尤もです。

そんなこと分かってるのに何でこんなことになってしまったのか。

思えば、三十路を越えたあたりから、作中で笑いを取りたいときに考えこむことが多くなってしまったのでした。学生の頃はあんまり考えてませんでした。というのも、お客さんも自分と同世代、同環境の学生ばかりだったから、考える必要がなかったのです。

笑いとは、滑稽さとは、という定義については難しいのであんまり触れたくないのですが、単に技術的なことでいえば共同体のコードをいじくれば笑いは起きやすくなります。学生ばかり、同世代ばかりの環境は、共同体のコードを解析するのは楽チンでした。'95年くらいはまだ携帯電話もネットも無かったからテレビや新聞のネタだけでもだいぶイケたし。

で、話を戻すと、三十路を越えたあたりから、若い人(10~20代)と話がかみ合わなくなってきたのです。今のところ自分の作品の主なお客さんは若い方が多いし、今後もしばらくはそうだろうし、だとするとこりゃちょっとマズいなー、と焦りをおぼえたのでした。

 それでもなるべく多くの人が理解してくれる大きな共同体にまで視野を広げれば何とかなったのかも知れませんが、たとえば「日本社会」とか「政治」「サッカーのワールドカップ」とかって規模がデカすぎるからギャグもそのぶん緩くなるんですよね。まあ、この点に関しては、俺が細かい、細かすぎるネタが好きなせいもありますが。

でも、これって、話はギャグだけではなくて、テーマとか、劇中で使う語句とかでも一緒だと思ってます。 演劇作品だから、という理由でなんの注釈もなく「チェーホフ」や「ストリンドベリ」なんて語句を混入させたら、好きな人には通じるけど、たとえば俺の職場の同僚やバンドのメンバーには届きません。

だから、いま現在、「共同体とは」みたいな議論が盛んな現在にあって、建て前上の可能性としては、言語を解する、モノを考えられる人間なら誰でもOKな劇場という場にあって、あらゆる場所から人種から年齢から成るお客さんの共通コードを取り出すのって、まあ無理ですよね、って思いたくないけど思います。

(だから俺は「搬入プロジェクト」という逃げ道を用意してます)

バックグラウンドを共有しない様々なお客さんが来られる状況にあって俺が頼りにできるのは、もう、その作品が上演される劇場(施設)に関する情報や、開演を待つ間に目を通していただけるパンフレットや、上演開始後に舞台上で起きたこと、くらいしかありませんでした。つまり、上演前数時間~上演中の、合計してもせいぜい10時間程度の範囲から語句なりテーマを引っ張ってくるしかなかったのです。

しかし、どうもビールを飲んだ頭で小難しいことを書こうとして失敗しまくってるので、この件に関しては後日改めて書きたいと思います。乱筆失礼致しました。











2012年1月11日水曜日

参考文献などリスト

おかげ様で悪魔のしるし演劇公演は無事終わりました。
お客様ならびに関係各位に感謝します。ありがとうございました。

以下、今回の作品のために参考にした文献などです。
後々自分で確認するためにも記録しておこうと思って。
直接引用したものだけでなく、作ってる最中にパラパラとめくったり、ふと頭に浮かんだものも一緒に載せてます。買ったはいいけどちゃんと最後まで読んでないものや実物を観たことがないものも含まれてます。もちろん、この他にもたくさんあると思うし、それ以上に、現実に起きた出来事から多くのヒントを得ているのですが、多分に私的な事柄が含まれてたりするので割愛します。

戯曲
「桜の園」アントン・チェーホフ 1903年
「悪魔のしるし」危口統之 2005年 
「わが町」ソートン・ワイルダー 1938年

演劇作品
「モチベーション代行」捩子ぴじん 2011年
「SHIBAHAMA」快快 2010年
「悪魔のしるしのグレートハンティング」悪魔のしるし 2010年
「BLACK TIE」 リミニ・プロトコル 2011年
「道化の霊廟」andcompany&Co. 2011年
「葵上」能楽

哲学・演劇・その他人文系書籍(年数は訳書出版時)
「重力と恩寵」シモーヌ・ヴェイユ 1947年
「意識と本質」井筒俊彦 1984年
「ゲーデル・エッシャー・バッハ」ダグラス・ホフスタッター 1979年
「ハイナー・ミューラーと世界演劇」西堂行人  1999年

「メモランダム」古橋悌二 他 2000年
「アーティストのためのハンドブック」 ベイルズ+オーランド 2011年
「ファッションは語りはじめた」西谷真理子 編 2011年 
「絵画の準備を!」岡崎乾二郎+松浦寿夫 2005年
「基底材を猛り狂わせる」J・デリダ 1999年
「黙示録論」D・H・ロレンス 2004年

アートその他
映像「SCHOOLYARD」アーナウト・ミック 2009年
絵画「ラス・メニナス」ベラスケス 1656年

小説
「空気頭」藤枝静男 1967年
「厭離穢土」藤枝静男 1969年
「悲しいだけ」藤枝静男 1979年
「こころ」夏目漱石 1914年
「旅順入城式」内田百閒 1934年
「世界で一番美しい水死人」 ガルシア=マルケス 1988年
「暗闇のスキャナー」P.K.ディック 1977年
「ヴァリス」P.K.ディック 1981年
「田園交響楽」アンドレ・ジッド 1919年
「化粧」中上健次 1978年
「熊野集」中上健次 1984年
「チャールズ・ウォードの奇怪な事件」H.P.ラブクラフト  1927年
「クレーターのほとりで」青木淳悟 2005年
「分身」国書刊行会”書物の王国”シリーズ11 1999年

映画
「ドッペルゲンガー」黒沢清 2003年
「CURE」黒沢清 1997年
「ウィトゲンシュタイン」デレク・ジャーマン 1993年
「脳内ニューヨーク」チャーリー・カウフマン 2008年
「アワー・ミュージック」J.L.ゴダール 2004年

制作中よく聴いてた音楽
「Third」PORTISHED 2008年
「Hell Awaits」SLAYER 1985年

まだありそうなので思い出したら追記していきます