先日友人の主催する、建築系のトークイベントに同席する機会を得た。
http://itosarotu.blogspot.com/2011/12/blog-post_02.html
この経験を踏まえて整理すると(といっても整理という行為の常でいろんなモノを見捨てるに任せているわけだが)
環境=出演者本人=ドキュメンタリ
建築物=登場人物=フィクション
と、言えば言える。
イベント登壇者である建築家青木弘司さんは、設計者として対峙する敷地環境(自然)を「絶対的な他者」とした上で、設計主体の思惑を越える制御不能な要素をいかに内部に取り込むことが可能か、といったお話をされていた。そして、そのためには形式化、抽象化が重要であるとも。
これを舞台に当てはめて考えると、演出や振付の形式化が(パフォーマー個々人の持つ)自然の拭い難さを露呈させるという意味では古典的なダンスや能楽の在り方を想起させる。ってこんな素直な理解でいいのかな??
また、コレに関して、コメンテイターとして参加していた建築家の平瀬有人さんからは、スイスで活動されていたご自身の経験を踏まえつつ、形式化と言っても実際に設計し建築するのだから材料(マテリアル)の議論が抜けているのは疑問、と指摘があった。
この指摘は重要だと思う。まだ上手く舞台芸術分野への翻訳ができてないのだが、マテリアルの問題は、例えば俺と捩子ぴじん(振付家/ダンサー/現在無職)さんが度々話題にする「去勢」の問題とつながっている気がする。
(多分まだ続く)