2012年4月13日金曜日

【イベント告知】第4回 写生大会.

   

悪魔のしるし 駄催事 

第4回  第5回 写生大会】

※時間帯を少し変更しました(2012,5/2)
※思い出のページをめくってみたら第5回でした(2012,5/8 訂正) 
※画板予約は 前日5/10金曜正午まで にさせて頂きます(2012,5/9)


【開会にあたって】
目の前にひろがる生の有り様を
画用紙に写し取る…しかし

時間をともないながら
いきいきと変化する生を
凍った平面に写し取るなんて
そんなの不可能に決まってるじゃないか!

そう、写生とは
地上に残された最後の冒険!

……われわれが普段なにげなく使っている言葉、「みる」。
でも「見る」「視る」「観る」「診る」「看る」と色んな「みる」があります。
おフランス語でも「voir」「comtempler」「regarder」と様々。

まずはじーっとみてみよう。
目の前のそれがいったい何だったのか分からなくなるくらいに。
(脳内から全ての名詞を消せ!)
描き始めるのはまさにそこから!


【内容】
[みんなでとことんスケッチする]

制約を設けた特殊なコースをご用意してお待ちしております。
もちろん普通にスケッチするだけのご参加もOKです。
その「普通さ」に何の疑いもないのならば。

【参加費】
¥500(画用紙、その他案内準備の実費として)

※悪魔のしるし特製画板ご希望の場合は+¥500

【とき】
2012年 5/12(土) (雨天の場合は翌日5/13に順延)

10:30 集合・開会の訓示・画用紙画板などの配布
11:00 第一セッション 
12:00 昼休み
13:00 第2セッション
16:00 集合・講評会・表彰式
18:00 どっかの店で打ち上げ飲み食い

 
【ところ】
野毛山動物園(横浜市西区老松町63-10) ▶動物園公式サイト




【お申し込み】 
件名を「写生大会参加申込」とし
・お名前
・ご予約の人数
・当日のご連絡先
・悪魔のしるし特製画板(¥500)を希望する/しない 

を明記のうえ、以下のアドレスまでお申し込みください
akumanoshirushi(アットマーク)gmail.com


【準備するもの】
・気合
・謙虚さ
・画具
(水彩/油彩/クレヨン/鉛筆何でもOK)
・お弁当とか
(園内にも売店はあります)


【主催者側で用意するもの】 
・大会パンフレット
・四ツ切画用紙
・悪魔のしるし特製画板(要事前予約/¥500)


 【私たちも写生大会を応援しています】

人が好きになるものをデッサンしてはいけない。
そこにあるものをデッサンしなければならない。
(パリ在住リルケさん)


アントーニオ、デッサンしなさい。
アントーニオ、デッサンしなさい。
アントーニオ、時間を無駄にしてはいけない!
(フィレンツェ在住ミケランジェロさん)


そんなものはみな大したことでない!
絵画も、彫刻も、デッサンも、
文章、はたまた文学も、そんなものはみな
それぞれ意味があっても
それ以上のものでない。
試みること、それが一切だ。
おお、何たる不思議のわざか!
(パリ在住ジャコメッティさん)



【過去の写生大会の様子】







2012年4月4日水曜日

劇場の構図 1-3



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第1章-3 芸能空間の基本形

前回からちょっと間があいたけど、またボチボチ再開します。
前項1-2(+追記)では、芸能空間を、パフォーマーとオーディエンスの関わり合いを基準に、おおまかに三種に分けました(未分化・可変・分割固定)。

この項では、もう少し詳しく見ていきます。

芸能は、独りで行う特殊なものは除いて、基本的には集団で行われる 

つまり、集団を収容する空間のあり方が非常に重要。舞台上の出演者が、観客に対してどのような角度で相対するか。逆に言えば、観客はどの角度から見ることを許され、また禁じられるのか。例えば、教会でのミサや落語、ある種の手品などは背面からの視線を封じており、そこにはそれ相応の必然性があります。より説得的な伝達を狙うならば、空間設計は非常に重要な要素になると思います。

……今のところ劇場といえば対面型が殆どで、しかもその仕様や構成についてうるさくツッコむお客さんは、作品内容へのそれに比すれば、あまり居ません(空間については、劇団ではなく劇場施設の責任だと捉えられている)。暗黙の了解として事前にかかっているこの負荷を利用するのが俺は好きです……

では、ふたたび分類作業です。とりあえず先にババっと書きだしてみます。

1)包囲型
2)対抗形
1+2)扇形
3)道行型
3’)限定道行型  

と、大きく分けて3つ+α。 
ではそれぞれ見ていきます。

1)包囲型
文字通り、演者を中心としつつ観客がその周囲を取り囲むタイプ。円環、同心円、といったプリミティブかつ強力な構図を利用した形式です。課題書には、以下のように記されています。



・囲むという行為、或いは円環を作るという行為には、集団の心をひとつの超個人的な精神に結びつけ、自己を超越させる魔力を持っている

・円環は中心を持ち、また自らによって空間を内部と外部に分かつ。

・円環を作るという行為は、集団のエネルギーを外に向けてではなく、この高められた内部に放つのである。そのような円環の内部で、包囲されて行われる芸能は、個人を超えた巨大な力により根源的同一者へと回帰させられることになろう。

・観客に常に内省することを要求する芸能ではなく、むしろエクスタシーへと導くことを好む。

と、かなーり力のこもった筆致で解説されてて、どうもこの方は包囲型が好きみたいですね。俺も結構好きです。ただ、細かいこと考えだすと難しいんですよね。観客が多い場合、円弧の厚みを増すのか、それとも直径を拡大し円そのものをおおきくするのか、とか、考えだすと内容にも関わってくる問題が山積で、且つ、上にも記されているように、部外者や後からやってきたお客さんに対して優しくないという弱点が。これを解決するために客席に高低差を与え、すり鉢状にした円形劇場なるものがありますが、この高低差がまた新たな雰囲気をもたらします。円環型と円形劇場は安易に同じものと断ぜられません。

ところで、上記の解説で、個人的に気になる言葉があります。「エネルギー」とか「根源的同一者」とか。

円環型空間、ならびにそのような場で行われる芸能は、「描写」「写実」といった近代文学以降のテーマよりも原始的で、パフォーマーも、いわゆる「演技」をしてない場合も多々あります。でも何かをやっている。「何か」をやってるけど、「誰か」をやってるわけじゃない。

パフォーマーが自分ではない何者かを自身の体で表現する、その「何者か」は水平方向、連続した地続きの平面上に存在する、つまり自分と同じ人間を演じるのが、まあいわゆる「演技」だと仮定(あくまでも仮定ね)すると、円環型の場合、表現対象が垂直軸方向、つまり天上に存在する(ってことになってる)超越的な何者かであることが多いんじゃないか、と。ちゃんと勉強してないので飽くまでも想像なんですが。円環内部で発生するエネルギーは、最終的には垂直方向に昇っていくイメージがあります。垂直方向上の天とか超越者って、要するにアンタッチャブルな存在で、 だから描写なんて不可能で、そこから逆に謎のエネルギーと飽くなき工夫が投入されるという、いわゆる「否定神学(©東浩紀) 」の構図ですか。まあ、これも俺は結構好きで、偶像崇拝に陥る危険性を避けながら神へギリギリのピンポンダッシュを狙う、というね。

あとでまた触れると思うけど、今のところ包囲型の魅力を味わえるのはスポーツ観戦かなと思います。ただ、スポーツの場合、戦いあうチームなり個人も含むので、対向型の要素もあります。ここらへんものちのち分析していくことになると思います。

2)対向型 
包囲型と対象t系な性格を持つ対向型の特徴は、「メッセージ伝達に優れる」という点です。人間の目(視界)が前方にしか開けていない以上、背面というのは伝達にとって不要な外部となり、隠されることになります。



W・ガブラーは、こういた対向型の芸能空間について、演技者が自分の後を見せたくないために、壁の前に立って演技をする場合を引き合いに出して、これを「演出」行為の始まりとして捉えている。

このような演出の介在は、向かい合う二つの集団に、意識の上で幾ばくかの距離を生じさせることを意味している。むしろ対向型の芸能空間は、この集団間の距離、言い換えれば異質性を積極的に利用しようとするところがある。自分が何者であるかを常に意識することにより、向かい合う他者を理解させる仕組みを持つからである。

 「自分が何者であるかを」というのは、1)包囲型が不得意とされている「内省」ってやつですね。客席と舞台の分割、異質性への意識、に基づいてメッセージを発する。包囲型の垂直性に対して、ここでは明らかに水平性への志向があります。

そしてこれら2つのオイシイとこ取りを狙うのが

1+2)扇形型  です。



この型については、このレポート連載の後半で触れることになるので、ここでは飛ばします。

3)道行型
 これまで触れてきた包囲型、対向型、扇形、は劇場やスタジアムで鑑賞、観戦した経験がある方には馴染み深いモノだったと思います。ただ、忘れてはな らないのが、この道行型です。チケットを購入しシートに座して観ることに慣れているとつい忘れがちですが、この形式もひじょうに基本的、歴史的な芸能空間です。




筆写は、芸能の発生を神事に求め、諏訪の御柱祭や京都の祇園祭、高岡の御車山などを紹介しつつも、

しかし、これら道行型の芸能の多くが、神迎えの儀式から発達したからといって、この形態をとる芸能の全てが神儀性を持つということにはならない。むしろ、もっと広い芸能行為の基本形態として扱うことができよう。  

と してます。

歴史的視点を外し、純粋にその形態と効果に着目してみれば、このように言えます。

N・シュルツが、「通路に沿って途中で何が起こるかということがこれから到達すべき目標とすでに背後にある出発点との対峙によって醸し出される緊張感に付け加えられる」と述べているように、通路はそれに付随する諸要素を組織させる強い軸として、ひとびとに目標と出発点を想起させる力がある。

閉じた空間内で行われる芸能の多くが(物語形式を採用してるかどうかに限らず)その「始まり」と「終わり」を時間軸上に設定しているのに対し、道行型では、それらは空間座標上に設定されることになります。

余談かつ私事で恐縮ですが、拙作「搬入プロジェクト」は、大きく分類すればこの「道行型」といえるでしょう。ゆえに性格な上演時間の設定は出来ません。ゆるめの環境でやる分には問題ないのですが、きちんとタイムスケジュールが管理されたフェスティバルやイベント等ではそれを理解してもらえなくてちょっと苦労しました。今後もきっと苦労するな。



芸能を[TIME IS MONEY]の軛からもっと解放しようよー、みんな!

・・・・・・・・・・・・・・・・・
で、話を戻します。「搬入プロジェクト」では明確な終わり(搬入完了)が設定され、参加者の殆どは最初から最後までその場にいますが、多くの道行型芸能の場合、行列は非常に長く、またその行程も数キロに及ぶので、一箇所にとどまった観客は全ての行程を一度に観察はできません。

つまり、一観客の立場に立つなら、始点と終点は想起されるものの、意識的に潜在化され、表面的には行列という行為の継続のみが提示されることになる。

この考察は結構面白いと思うんですよね。何が面白いのか未だよくわからないし、自分の作品に落とし込めるかどうかも不明ですが、想像的な始点/終点が観客に内面化されてる状態ってのは、これもいうなれば一種の負荷で、何かに利用できそうだなと感じています。

で、このような長い長い道行型を区切ったものとして現れる形式が

3’) 限定道行形 です。
つまり、通常の道行型では潜在化していた始点と終点が、ここでは顕在化し、道行きの線も線分として限定されています。



我が国では、物事の導入や完了が重視され、儀式化する傾向があるとよく言われるが、演技者の入場や退場も線的な運動を持つ自立した芸能行為として扱われることが多く見られる。 

限定道行形の形態は、この他にも、能の橋懸りや歌舞伎の花道などのように、建築空間を構成する語彙として固定された型で作られているものもある。

著者はこのように↑記述するけれど、
道行型の亜種としての限定道行形、って見方に縛られると見逃すものがあるかも。「橋」「花道」って言葉が示すように、限定道行形は、その空間自体が何らかの形象を伴って設えられることが多いです。逆に考えれば、「橋」なり「花道」がなければ彼岸と彼岸は渡れない、そんな装置として考えることも可能です。いや、「橋」があることで彼岸の存在を意識させられるのかな?鶏と卵の話みたい。

道行、というほど距離はないけれど「門」にも同様の効果がありますね。これも一種の限定道行型装置としてもいいかも。




この項の、著者によるまとめは以下の通り↓

道行型、限定道行型の芸能空間は、このように始点と終点とが潜在化するか顕在化するかという違いはあるが、先に示した包囲型、対向型、扇形型という空間の静的な拡がりよって特徴付けられる一連の芸能空間の基本形に対して、運動、即ち時間の変化を基本とする動的な性格によって特徴づけられる芸能空間の基本型といえるだろう。

…なんだけど、サラっとしすぎで、俺はどうも引っかかる。
 限定通行型はもっと掘り下げる必要がありそう。
舞台でも客席でもない異質な空間として、更に分析してみたいです。

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