2012年3月24日土曜日

悪魔のしるし新作参加者募集のお知らせ

この秋に新作を上演(たぶん演劇作品)することになったので参加者を募ります。
出演者だけでなく、演劇公演を打つ上で必要と思われる様々な仕事を様々な人と共に作りたいと考えています(が、基本的に演出家の独裁です)。
興味ある方は、以下の案内をご参考の上、お気軽にご連絡ださい。



【タイトル】
未定

【ジャンル】
おそらく演劇


【内容】
歴史とか家系、土地(site)を主題としたフィクション作品(ドキュメント成分含む)

【日時】
2012年 9/27~30(上演 4~6回予定)


【会場】
KAAT(神奈川芸術劇場)中小スタジオ

【演出】
危口統之(ちゃんとした戯曲を書くかどうかは未定)

【準備期間】
 5月~9月

■5月中…WS
オーディションを兼ねてワークショップ的な催しを数回開きます(基本的に週末)。
いわゆる演劇のWSではなく、単に絵を描いたりメシ作って喰ったり読書会したり、かもしれません。
絶対に毎回参加しなきゃ駄目、なわけではないです。
要は、演出家として各人のパーソナリティを知りたいというわけです。
参加料などは特にありませんが、実費を頂く場合があるかも知れません(画材や食材など)。 


◆WORKSHOP日程(5/2現在)
5/12 写生大会 野毛山動物園
5/17 稽古形式 森下スタジオ
5/28 稽古形式 森下スタジオ

■6月~7月…稽古
WS参加者の中から選抜し、或いはこちらからお声がけした方も加え、出演者+スタッフから成る製作委員会的な集まりを組織します。 
悪魔のしるしは、「危口の思いつき+公演ごとに集められたメンバーの協力」というかたちでいつも作品を作っており、今回も同様に進めていく事になると思います。

7月末をメドに、いったん作品を完成させます。

■8月…自主練
信じがたいことですが、演出家は 別の仕事でまるまる一ヶ月海外に行く予定です。
残されたメンバーの自発的な練習や準備を祈るばかりであります。
便利な便利なインターネットの力なども借りて、できることは可能な限りやります。 
これも本作に与えられた条件のひとつなので前向きに活用します。

■9月…仕上、本番
演出家が9月上旬に帰国したらすぐに仕上げ作業に入ります。
舞台美術や衣装といったスタッフワークもここから佳境になると思います。
小屋入りは9/24です。

【報酬】
 観客動員(チケット収入)や、現在申請中の各種助成金の成否次第ではありますが、そんなに立派な金額ではありません。
額面の多寡については、スタッフ/出演者に関わらず作品への貢献度から判断して主宰/演出家である危口が決定します(監修として制作担当田辺が就きます)。
なお、専業のスタッフ(舞台監督や音響、照明プラン+操作など)にこちらから依頼した場合は、なるべく正規のギャラをお支払いいたします。

【注意】
演出家危口は性格に幾分か問題が有り、それをひとことで言えば、
「他人に出会った時、ビビる もしくは 舐める、その二種類しか応対方法を持たない」となります。
ビビった相手には尻込みし、事態の進展を徒に遅らせ、一方で舐めた相手には無茶ばかり要求します。そして公演が終わる頃、徐々に敬意が芽生えてきます。こういうところは本当に良くないと思うので、この作品を作る過程で人間的に成長したいと思ってます(希望)。

【応募申込】
件名を「悪魔のしるし9月公演参加希望」とし、

・氏名(芸名がある場合は併記)
・連絡先 (メールアドレス、電話番号)
・所属(劇団、集団、フリーランスなど)
・職業(アルバイト、学生、会社員など)
・悪魔のしるしの活動を見たことがある/ない(ある場合は感想も一言)
・希望参加形態(俳優として、美術として、衣装として、自分でもわからない、など)
・得意分野(演技する、でかい声を出す、絵を描く、映像を撮る、編集する、料理する、寝る、、など「動詞」で表記してください) 

を明記の上、こちらまでご連絡ください↓
akumanoshirushi@gmail.com












2012年3月18日日曜日

搬入プロジェクトについてのオシャベリ

某所で「搬入プロジェクト」について話す予定なので
その原稿を書いた。ので転載。
口調については突っ込まないで欲しい。そういう場なんですよ。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■

へい どうも
俺は危口統之ってケチな野郎で
演劇とかパフォーマンスの演出家みたいなことをやってる。
演出家じゃなくて「演出家みたいなこと」だ。わかったかい?
おっと、それ以上は聞かないでくれ、説明は後回しだ。

今日はな、俺が思いついた面白い「遊び=PLAY」をみんなに教えるぜ。
こいつはPLAYつっても「演劇=THEATER」じゃないんだ。
文字通りのPLAYなんだ。
いや、見方によってはWORKとも言える。
WORKって言っても「作品」じゃなくて、「仕事」の方だな。「労働」っぽいのさ。
うーん、いや、演劇かも知れない、難しいな。説明しづらいぜ。

おっと、前口上が長すぎたな。
俺のくだらないお喋りを聴かせるよりも、
さっさとこのPLAYもしくはWORKの説明をしなきゃな。

さて、何から話そうか。
いままで俺がやってきた活動の写真やビデオを見せてもいいんだけど、
それは後回しだ。
なんでかって?
そうだな、その説明もしなきゃな。

結局、俺がダラダラしゃべることになりそうだな。
悪いけど聞いてくれ。これは大事な事だからよ、少なくとも俺にとってはさ。

俺が思いついたこいつは、いちおう名前もあって
「搬入プロジェクト」っていうんだ。(carry-in project)
これは……なんて言ったらいいんだろうな。
場合によっては、俺はこいつを演劇って言い張るし、
でも、単なる遊びかもしれないし、ゲームとも言えるし、
また別の見方をすれば彫刻、いや、「裏返された建築」とも言えるかな?
とにかく、ひどく曖昧なんだ。

何でこんなことになってしまったかって、それは、
この作品が先鋭的ってわけじゃなくて、むしろ、
異様に原始的だからさ。
君たちの身の周りのアーティストを見てみな。
みんな「自分の作品はどのくらい先の未来まで生き残るだろうか」、
そんなことに汲々としているだろう?
その気持ちは分かるぜ。俺だってそんなことを考えることもあるさ。
でもな、未来のことなんて知ったこっちゃねえ。

そこで、俺は発想を転換したんだ。
「過去の時代でもウケる作品を作りてえな」ってさ。
もちろんこんな考えは妄想だよ。でも、刺激的だろ?
「搬入プロジェクト」は、俺の勘では、そうだな、
旧石器時代の人間にもそれなりにウケると思うぜ。

いかん、また話が逸れてるな。
これは俺の悪い癖なんだ。
大学は出てるんだが、論文ってやつを書いたことがなくてね。
話をまとめるのが苦手なんだよ。
自分で一から作り上げるのも苦手なんだ。
つまり、もともとそこに在ったものにイタズラするのが得意ってことさ。
俺に仕事をさせたきゃ、俺の嫌がるタスクを強要してくれればいい。
うまいことサボりながら自分の好きなことをやるからさ。

俺は、言うなれば、「二次的な」存在なんだ。
居ても居なくてもいいけど、突然現れて、
みんなが「これしかない」って使い方をしてる物の別の使い方を、
イタズラっぽく提示して去っていく、そんな存在だ。

つまり演出家っていうのは「ちょっかいを出す」のが仕事なんだ。
少なくとも俺はそう信じてる。
硬直化したものを溶かす春の暖かさのようなものさ。

え?早く説明しろって?
悪い悪い、そうするよ。
ここからは写真やビデオも使おうかな。

説明は一瞬だ。すぐ終わるからよく聞いてくれ。

1 空間をひとつ選ぶ
2 その空間にギリギリ入る形状の物体を作る
3 みんなで力をあわせてその物体を運び込む

これで終わりだ。シンプルだろ?
シンプルすぎてバカみたいだ。俺もそう思うぜ。
だからもうちょっと補足したほうがいいかな。


まず
「1 空間をひとつ選ぶ」なんだが、
コツとしては、「出入り口は狭いけど内部は広い空間」を選ぶと面白くなるぜ。
別種のものでは「内部は広いけど出入り口は狭い空間」もイイね。
具体例を挙げるなら、倉庫や、公共施設のエントランスホールだな。
テートモダンのホールなんてサイコーに具合がいいぜ。
関係者これ見てたら連絡くれよ。


次に
「2 その空間にギリギリ入る形状の物体を作る」だけど、
これに関しては、いくつかのフェーズに分けたほうが説明しやすいな。
といっても簡単だ。大きく分ければ以下の三つだ。
「測量」「模型」「実作」。


まず 空間を決めたら現地に行って大きさを測量するんだ。
そしてそれをもとに図面を書いて、更に図面をもとにして模型を作る。


そして、模型が完成したら、とりあえず手元にある色んな小物、
例えばペンやタバコの箱なんかを使って、
どんな形状のものが搬入できるか試してみてくれ。

この段階である程度の見通しを得られたら、
次に、実際に物体を作る素材や、
それから予算、当日参加する人数を想定しながら具体的な設計を開始だ。
俺の場合は、日本で容易に手に入る木材や竹を念頭に置きながら設計した。
素材に関しては、地域によって価格や入手しやすさに違いがあるから、
自分たちのやりやすいようにしてくれたらいいよ。

あと、ひとつ大事なアドバイスを。
最初に俺が「これは演劇かもしれない」と言ったのを覚えてるかい?
演劇には戯曲が必要だろ?
その戯曲の指示に従って俳優は舞台上で動く。
じゃあ、「搬入プロジェクト」ではどうなるか?
この物体こそが戯曲ってわけさ。
そうだな、戯曲でもあるし彫刻のようでもあるし、
「scripture」なんて表現はどうだ?
サムい?

まあいいや、
戯曲と物体の共通点を挙げてみるから、ちょっと聞いてくれ。

・長さを持つ、つまり始まりと終わりがある。
・途中で折れ曲がったり捻れたり、と起伏のある展開
・それ単体でも魅力的だが、上演されることで息を吹き込まれる
・解釈によって上演は毎回異なったものとなる

まだまだありそうだけど、まあ、この辺りだな。
「搬入プロジェクトは演劇だ」ってことは分かってもらえたかい?
俺にとってはそのほうが都合がいいんだ。
これが俺の作った演劇作品なら俺は作者として報酬を請求できるからな!


さて、設計が終わったら実際に物体を作る工程に進もう。
さっきも言ったけど、ここで大事なのは素材と構法だ。
矛盾する課題をクリアしながら進めなきゃいけない。
つまり、
「頑丈な方がいいが、強度を上げすぎると重くなり運べない」
ってことだ。
かといって、軽くしすぎて運んでる途中で壊れるようじゃ話にならない。
この物体は戯曲でもあるんだからな。
上演の途中にもかかわらず戯曲が変わってしまったら困るだろ?
重量と強度のバランスに気をつけてくれ。

そして、物体を覆う外皮の素材も重要だ。
あまり想像したくないが、壁や天井に激しく衝突するかもしれないからな。
できるだけ柔らかい素材で全体を覆っておけば万一の場合も安心だろ?


さて、最後に
「3 みんなで力をあわせてその物体を運び込む」ことについての説明だ。
言うまでもないことだが、実際の作業にはそれなりの危険が伴う。
くれぐれも怪我しないように気をつけてくれよな。
そのために大事なのは、

・事前のストレッチ と
・声をかけあう ことだ。

作業開始前によく体をほぐしてくれ。
そして作業中はお互いに声をかけあって、力をあわせて搬入だ。
参加者それぞれの役割は物体の動きによって変わってくる。
周囲の状況にあわせて臨機応変に対応してくれ。
人もそうだけど、建物にもぶつけないよう気をつけてくれよ。
無事運び込めたときの爽快な気分は俺が保証するぜ。

さて、まあ、こんなもんだ。
こっからは、いくつか補足していこう。

みんなも薄々感づいていると思うんだけど、
搬入するためだけにバカでかい物体を作るわけだから、
作業が終われば物体は役割を終えてただのwhite elephantってやつになっちまう。
もちろん、そのまま展示してくれてもいいけど、それだって永久じゃない。
いつかは解体してゴミに出さなきゃいけないだろ。
だからさ、できるだけ自然素材に近いものにして欲しい、これは俺からのお願いだ。
そして、ちょっとした内部告発でもある。

というのも、みんなが普段から親しんでいる演劇や映画、それから建物が、
その製作過程においてどれくらいのゴミを出してるか知ってるかい?
そりゃもう尋常な量じゃないんだぜ。
俺は演劇だけじゃ食っていけないから、いつもは工事現場で働いてるんだが、
毎日大量に廃棄されるゴミを見てるだけで頭がクラクラするんだ。
工事現場から出るゴミだけで家が何軒も建っちまうぜ。

確かに芸術は贅沢品かも知れない。
だからって、無駄をそのままにすべきじゃない。
無駄、言い換えれば「余裕」だな。
余裕が必要なのは予算や材料じゃなくて、アートに関わる人間の精神だ。
「わざわざ入れにくいものを一生懸命作って、入れたら終わり」なんて
余裕がなきゃやってられないだろ?
そして運び込んだときに得られる感動がその余裕を満たしてくれるって寸法だ。

それから次、これは矛盾をはらんだ話になる。
俺は「搬入プロジェクト」のことを演劇でもあり遊びでもあり、労働でもある、って言ったよな。
これが「演劇」なら、俺は劇作家だ。
つまり「作品」ってことになり、俺の署名が入る。

でもさ、これまで説明したとおり、「搬入プロジェクト」は
ちょっとした余裕さえあれば誰でもできるものだ。
だから、俺の署名なんて必要ない。
俺がその場に居なくてもやりたい人がやってくれたらいいんだ。
現代風に言えば「オープンソース」ってやつだな。
となると、こいつは「作品」じゃない。
「作品」は「鑑賞」されるものだけど、
「搬入プロジェクト」は「参加」するものなんだ。
「鑑賞」じゃなくて「参加」だ。
それぞれの役割はあるけど、上下関係はないんだ。

俺としては、世界各地でみんなが勝手に「搬入プロジェクト自分だけバージョン」を
やってくれることがいちばんエキサイティングなんだけどさ、
一方で、自分の作品が金にならないと、俺はいつまでたっても貧乏だ。
こいつは難しい問題だ。みんなもそう思うだろ?

だからさ、余裕――この場合は金銭的余裕だ――がある奴は
ぜひ俺を呼んでくれ。つきっきりでその土地に合った面白いバージョンを考えるぜ。

そして、金のない奴は勝手にやってくれ!
でも、もし良かったら、俺に連絡をくれよな。
メールでアドバイスするし、君たちのバージョンを記録した写真やビデオなんかも観たいからさ。

とまあ、長くなっちまったが俺からの説明はこんなもんだ。
みんな気に入ってくれたかな?
だとしたら、さっそく具体的実行に向けて動いてくれ。
enjoy it!


劇場の構図 1-2 追記





劇場の構図 1-2 の追記

次項(1-3 芸能空間の基本形)に進む前に、前項(1-2 観ること、観られること)をまとめながら考えたことなど追記するです。


筆者清水裕之は芸能空間をその性質によって3つに大別してました。

1 未分化型 
みんな「する側」。相互に見せあいッこ。純粋に「観る」だけの人は居ない。
お茶会など。

2 可変型 
その時その時で「観たり/観られたり」。
ディスコ、盆踊りなど。

3 分割固定型
「する」「観る」が完全に分かたれ、それぞれが専門家してる状態。

で、これって政治のあり方と似てんじゃね、と。
つまり、上演空間はそのまま政治空間の縮図として読めるのでは、と。
representation (表象=代理)なんて言葉もありますしね。

俺なりに強引に当てはめてみれば↓

1 全員参加で意思決定する田舎の寄り合い
2 持ちまわりで代表を決める(代表制)
3 専門的政治家(国会議員とか) 
って感じでしょうか。


何が言いたいかというと、劇評とか読むとしばしば目にするんですが、「若いもんは政治に興味持たなすぎ」的な論調ありますよね。で、俺は思うんです。ホントそうなのかな?って。

確かに物語内容レベルで見れば(つまり戯曲だけ読めば)他愛もない身の周りの話が多かったりするのかも知れないのですが、いざ上演、って段になれば、「客席の設計」を通して、個々の作家/カンパニーの持つ政治意識が現れてるんじゃないかな、と。

例えばこんなのや↓



こんなのや↓



もいっちょ(自分のばかりでスイマセン)



まあ、どれもこれも戯曲らしい戯曲を持たない作品なので("作品"ですらないかもしれん)、いまひとつ説得力に欠けるかも知れないけど、ともあれ空間演出と政治意識はけっこう、というかダイレクトにリンクしてると思います。

前項で俺は METALLICAを引き合いに出しつつ、演者と観客の関係、そしてその現れである SNAKEPIT の例を挙げましたが、↑上に挙げた快快や悪魔のしるしのパフォーマンスも、観客との関係にこだわってるように思えます。つまり、実はけっこう政治的だと。

「政治」って言葉は大げさかもしれないから、ちょっと言い換えて、仕掛ける側とお客さんの双方によって発生する「シーン」とか「場」 への意識、とでもしておきますか。

快快は、よく「会場にDJとか居てクラブっぽい」と、なぜかシャレオツなイメージで括られてるけど、よくよく考えてみればこれスゴイことだと思うんすよ。何が、って「クラブ」的であることが。
 とりあえず現在のクラブ/ダンスカルチャーの起源的なアレ↓

セカンド・サマー・オブ・ラブ


俺はこの辺りの文化については素人なんで詳しいことは知らんですけど、それでも言えるのは、クラブカルチャーって、それまでみんなが前提としてた「作家性」「作品性」へのアンチとして生まれてますよね。ステージなんて無くて全てがダンスフロア。水平に広がる空間。間違っても「いと高きステージより下賜される偉大な演出家の意志!」っていう垂直的なイメージじゃないですよね。

「鑑賞」「作品」って概念は二つで一つのセット、どちらかが欠ければもう一方が成り立ちません。対して「参加」「出来事」という軸があります。で、俺はその二つのあいだをフラフラとさまよっているわけです。

これに関しては、「悪魔のしるし」の活動を開始する前にバンド活動をやってたことも影響してるかも。俺がやってたバンドはハードコアパンクというジャンルで、この界隈もクラブカルチャー程ではないけれど(しかしその起源のひとつと言えるかも知れない)、草の根的、非作家的、非作品的なシーンなんですね。バンド活動の各段階における非営利的な実践が重視されます。

ライブハウスにはいちおうステージとフロアがあるけど、フロアを埋めるのも(うちのバンドはそんなに埋められなかったけど/笑)、たいていはバンドマン。前項の区分に従えば(2)可変型に近い構図。

この話、もうちょい続けられると思います(てなわけで続く







2012年3月11日日曜日

劇場の構図 1-2



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第1章-2 観ること、観られること

空間を問う前に、まずは「芸能」というものについて簡単な定義が為される


「生身の人間が自分自身の声や肢体をメディアとして、或いは変身させて、演じ出すもの」

続けて、

その行為の根幹には演技がある。そして、この演技とは常に観客のまなざしを意識することによって成り立っている。

と規定される。
また、その反論として梅棹忠夫による「しろうと芸能」「独酌型芸能」「宴会型芸能」などの区分を紹介し、「観客なき芸能への志向」「個別化、個人化した主客一如の境地」の存在を認めつつも、これらもまた「何らかの規範を前提とする」限りにおいて「それを習得するという意味でやはり観られることを欲しているのである」とする。

つまり、

時間・空間の一断面ではひとりでするように見られる芸能でさえ、時空間の枠を広げてみると、すること、観ることとの関連を見出すことができるのである。

 と、芸能では観る側の存在が不可欠であり、いっけん不在なようであっても、どこかに、言わば<想像的な観客>の視点が設定されていると説く。演じ手と観る側の意識の交歓を経済活動に置き換えてみても、これは説得力があると思う。商売人や政治家は必ずしもいま眼の前にいる客にだけモノを商っているのではない。そこには想像的な未来の観客(消費者)が措定されていることも多々ある。

このような前提の上で、筆者は考察の口火を切る。

「芸能をする」という行為によって、時空間に人と人との精神の交流が広がるという現象に、より積極的な意味を与えたいと考える。そして、そのような集団との関わりという側面を重視するなら、ひとりでする芸能よりはむしろ、人間集団の結びつきが、ある時空間に凝縮されたものとして、集団で行われる芸能を考察の中心に据えるべきではないか。芸能の上演によって生成される空間の豊かさは、むしろここにあると思われるからである。

余談だが(というかこのシリーズたぶんずっと俺の余談ばかりになると思う)、友人でもある建築家、藤原徹平氏(フジワラボ代表+隈研吾建築都市設計事務所 兼務)は、「アクティビティによって質的変化する空間に興味がある。例えば電車の中とか」と俺に語ったことがある。もうだいぶ前の話なので本人も忘れてるかも知れないが、その後の彼の、建築設計だけに留まらない多様な活動を見るにつけ、その心意気をいまだ保持しているように思える。今後の活動も引き続き応援したい。

閑話休題。
(どーでもいいけど「閑」って漢字いいよね。閑谷学校とか字面だけでグッとくる)

さて、演者+観客によって構成される上演空間を、その質によって筆者は三種に区分する。以下、列挙してみよう。


1 
仲間内で楽器を演奏したり、或いはお茶会を行うような場合である。ここでは参加者すべてが「する」行為の当事者であり、すると互いにその行為を見合っている。即ち、観ることと、することは、成員相互に同じように作用しあい、トータルな芸能空間は、同室なひとつの集団によって行われる。従って、する行為のための空間も、観る行為のための空間も分化せず、融合された状態に置かれている。






次に考えられるタイプは、自らすることに意味を持ちながらも「することを観せる」「することを観る」という行為が表に現れくる場合である。具体的な例としては、今日のカラオケやディスコのようなもの、または盆踊りのようなもの、あるいは過去のものでは、バロック時代の王宮の仮面舞踏会などが挙げられよう(中略)そこでの芸能行為は、空間的にすることを主体とするグループと、観ることを主体とするグループに分かれる傾向が窺える。ただし、時間の経過を考慮に入れると全体としてはそこに参加する成員相互の基本的な関係は同質なのが特徴である(中略)こうした集団の中では仮に観るだけの存在、するだけの存在が生じた場合、それはむしろ異質な存在として集団からは排除される傾向すら持つ。









いわゆる「観る芸能」と呼ばれるものである。ここでは、トータルな芸能行為は、芸能をする行為と見る行為の二つに分極化され、それぞれ演技者と観客という、異質な集団によって担われる。職業芸能集団によって行われるほとんどすべての芸能が、この範疇に属するといっても過言ではあるまい(中略)第1のタイプでは「観ること」よりもむしろ「すること」のほうが強調されていたのに対し、「するのを観せ」「することを観る」という集団相互の関係が全体の芸能行為を強く規定し、「すること」自体の意味は「する」側の集団固有の問題とされ、観客も含めた芸能空間全体を支配する意識には至ることがないのが特徴である。






といった具合である。
ではこれらを踏まえて気になることをポツポツと呟いていこう。


これらの区分(1→2→3)は、そのまま芸能を含む文化一般の変遷にある程度重なるのではないだろうか。例えば住宅建築というものを例にとってみれば、

地域共同体成員によるセルフビルド

得意な技術を持つ専任者の登場(セミプロ、半農大工など

住まい手と建設業者(建築家やゼネコン)の分離

といった具合である。
批評というものが成立するのも(3)の過程からだ。



(2)の区分で例示される盆踊り、ディスコ、カラオケ、舞踏会などが総じて、いわゆる「ナンパスポット」であるのは興味深い。よってこの場合、お気に入りの相手をゲットした際には、空間そのものから二人して「フェイドアウト」することも可能であり、空間そのものがオープンエンドである。つまり「作品」として鑑賞されるのではなく、むしろ参加者の出会いの場としての側面が強い。上演される芸能は、次のステージのための一つの契機として設定されている。むろん、発生当初からナンパが前提とされていたわけでは無いと思うのだが、空間の緩さが出入りのし易さをもたらし、そのままナンパの場への移行を可能にしたのではないか。

これは後々にも触れられることだが、神に捧げる儀式としての芸能の場において、より優れたパフォーマンスを発揮したものが栄誉に浴す(古代南米文明では生贄として首をはねられたりする 笑)という習慣の名残なのかも知れない。


(1)(2)に共通しているのが、「優れたパフォーマンス」のイメージが全員に共有されていることだ。明確な観客が居ない代わりに、「理想的な芸」がひとつの規範として場を支配しており、その境地への隔たりで芸の優劣が判断される。多様な参加者が集まる場においてはこのケースは成立しにくいだろう。


再び課題図書の引用に戻る。
筆者は現在においては上演にしろ研究にしろ(3)のケースが支配的であること指摘する。

今までの芸能空間の分析は、完成された芸を持つ職業的芸能集団を対象とする事が多かったせいか、どちらかというと、第三のタイプを基本として研究されてきた。ギリシア・ローマ演劇をはじめとして、能舞台や歌舞伎劇場のように完成度が高い、固有の劇場という型を持つ空間の考察では、観る側と演じる側は、明らかに異質な存在として扱うことを前提とされてきた。こうした扱いは、無意識のうちに、芸能空間の分析を能動的な行為者としての演ずる側の空間、即ち舞台に比重をかける傾向へと繋げがちであった。


観客の空間は、演技の空間に付随するものとして消極的に扱われ、舞台の形態との積極的な関わりを論じたり、観る意識の違いによって観る側の空間がどのように変容するか、といった観点に立って論じられることは少なかった。

筆者はその原因を、近世以降一般化したプロセニアムステージ型劇場、ならびにそれを基盤とする作品上演の隆盛に求め、返す刀で批判する。

しかし、本来、芸能空間というものは、そこに参加する全ての人々の意識や行動が互いに作用しあい、その相互作用の中からトータルに形成されるものである。

そして、この観点から言えば救いようのない(3)の形態についても、

あとで詳しく観察するように、舞台と客席は、様々な関わりにより互いに影響を及ぼしあうもので、決して一方だけで完結した空間ではありえない。

 と、次項から始まる、より具体的な芸能空間形式への考察を予告する。

■■
 例によって、ここからは独り言。

この本を読み進めながら思い出してTwitterに書き込んだのが、アメリカを代表するロックバンド(メタルバンド)であるMETALLICAの試みだ。

まずはこの写真+動画を。





彼らが一介のヘヴィメタルバンドから世界の頂点に君臨する存在に躍り出るきっかけとなった大ヒットアルバム「METALLICA(通称:ブラックアルバム)」発売後のツアーの写真である。舞台が観客席と接する辺を可能な限り増やしつつ、またその内部に「SNAKE PIT」と名付けられた特別席を設えた特異な設計だ。

(撮影されたのは90~91年くらいだと思うが、このツアー確かとんでもなく長かったので、もうちょっと時代が下るかも知れない)

以下、自分がTwitterに記した言葉をそのまま貼り付ける。


引き続き「劇場の構図」を読み進めているが、ここで意外に重要なのがMETALLICAだ。ロックコンサートの空間構成に関して一時期の彼らは様々なかたちを試みていた。これは元々ファンとの結びつきを重視するインディーズシーンから出発した彼らならではのやり方だろう。

 ネット以後、それは動画配信などの方向へシフトしていったが、その直前、90年代初頭に彼らが提案した[SNAKE PIT]は当時の自分にも衝撃だった

巨大化するバンドのせいでインディーズ文化から離れつつあった彼ら、の出した誠実な回答がこのSNAKE PITなのだと思う。

民衆芸能から生まれた[劇場]がその後ワーグナーの手によって完全に「去勢=芸術作品化」される過程を、METALLICAもまた反復している。

高校生当時危口くんはヨダレを垂らしながら憧れてたんだよコレに。ちなみに全体的な舞台-客席の関係も完全包囲型です。360°対応のために確かドラムセットを2~3つほど置いていたと記憶している。

「劇場の構図」の論に従えば、同心円の中心に最も興奮度の高い要素を配すのが包囲型のセオリーなので、ここに自分たち演奏者ではなくコアなファン(確か、ファンクラブ会員から抽選で選んでたはず)を招き入れるというのは、態度表明として非常に説得力あるものとなってますね

「劇場の構図」が設定する(1~2~3)の芸能空間図式の区分で言えば、このSNAKE PITは、(2)と(3)の間にある微妙な境界に位置している。

80年代初頭、米国ではマイナーだったヘヴィメタルというジャンルは、まだ大きな、商業的なシーンを持ち得ず、テープトレーディングやファンジン発行など、熱心なファンによる草の根的な活動に支えられていた。自らもまたそのような熱狂的メタルマニアだったラーズ・ウルリッヒ(METALLICAのドラム奏者、ヴォーカル/リズムギター担当のジェイムス・ヘットフィールドと共にバンドのリーダー的存在)は、その後バンド活動が巨大化するに連れて失われていく草の根インディーズ的な連帯との繋がりを諦められず、ひとりで頑張って模索し続けていたのだろう。その結果としてのSNAKE PITなのだと俺は考える。泣けるじゃありませんか。実に泣かせるじゃありませんか。

上↑ででっち上げた、住宅建築の流れをここで当てはめてみると、

 好き者同士が愉しむ民俗芸能だったメタル
(演奏場所は小さなライブハウス、ガレージなど。演奏者/聴衆が未分化な状態)
冴えわたるパフォーマンスをするバンドの登場
(部族内の英雄として祝福される)
大ヒットによってヌルい観客もライブに来るようになる
(昔からのファンは面白くない)

→その救済法としてのSNAKE PIT(コアなファンだけが入場を許される)

ってことになるだろうか。

SNAKE PIT に関しては例として面白すぎるので、今後も引き合いに出しつつ分析していきたい。

次回 1-3 空間芸能の基本形 に続く。

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劇場の構図 1-1



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第1章-1 はじめに



まず冒頭で


民俗芸能が現代的な演出に翻訳されて、大劇場で披露される機会が非常に多くなった。

と、現代の芸能の状況を紹介しつつも


なぜか、街路や広場では生き生きとしていたそれが、近代的な設備の整った劇場に拾い上げられたとたんに、輝きを失い剥製のように冷たくなってしまうのである。

と、筆者はそこに違和を表明する。ことは民俗芸能だけではない。小劇場界隈で活動する我々も他人ごとではない。

百人程度しか観客を収容できないような小さな劇場で、迫力満点の演技を行い、われわれを虜にした新進気鋭の若手劇団が、認められて大劇場に進出したとたん、粗暴な欠点ばかり目立つようになる


これは、自分や自分の知り合いの活動を振り返ってみても思い当たる節が多々ある。なぜこのようなことがおこるのか。筆者は以下のように推察する。

現代舞台芸術であっても、民俗芸能であっても、演じることを意図するあらゆる芸能行為には、どうもそれに最もふさわしい場というのがあるのではなかろうかと思われる。



優れた建築物が、その寄って建つ敷地の条件、状態、ひいては周囲の環境を読み込んだ上で設計されているのと同様に、空間芸術としての側面を持つ芸能もまた、それが行われる場への配慮なしには成立しえないのではないか。いや、配慮というだけでは弱い。作品上演は空間との結託なしに盛り上がることはない。例えば、

60年代の後半に衝撃的に登場し、われわれを圧倒した、佐藤信の「黒テント」や唐十郎の「赤テント」の迫力は、戯曲の優秀さや社会に対する問題意識の鋭敏さ、或いは役者の力量などに加え、彼らが最もふさわしい場、即ち、テント空間を発見し、それを縦横無尽に使いきったところが大きい。

 と、テント芝居における上演空間の熱さを紹介する。



 80年代に入った今日(※この本の初版は1985年)、佐藤や唐の生み出した新しい形態の演劇は、現在ではひとつの演劇ジャンルとして定着し、小劇場ブームと言われるように、多くの観客を動員できる一種の文化産業にまで成長している。しかし活動が一般化すればするほど、当初の強烈な空間意識はどんどん希薄化する一方である。

 このあたりの状況は、演劇に触れたのが90年代中期以降である俺にとっては、いまひとつ実感がない。テント芝居はその構法上、自ずと空間規模に限度を持つが、それにこだわらない多くの人気劇団は活動の場を小劇場から更に大きな空間へと移していったようだ。例えば野田秀樹率いる夢の遊眠社は、その活動のクライマックス、あの代々木体育館で上演したと聞く。さすがに大規模過ぎて想像しにくいが、ここまでデカイと逆に盛り上がったような気もするが実際はどうだったのだろう。


当時俺が所属していた学生演劇サークルの稽古はかなり体育会系というか、ストレッチや筋トレ、発声練習やストップモーションなどに重きを置いた、身体能力重視のものだったから、その意味で、志向として「ボロ(小劇場)は着てても心は錦(大ホール)」だった。

つまり、「演劇活動におけるサクセス=観客収容能力の増える大きな空間への進出」と信じられていた時代の名残のある中で俺は活動を開始したのだった。先輩が意識してたのは第三舞台やキャラメルボックスだったから、規模としては紀伊国屋ホールあたりが念頭にあったのかも知れない。

(俺は少し上の世代であるジョビジョバなどに感情移入してたな~。しかし直後にチェルフィッチュに出会い上演空間への意識が激変するのだった)

ちなみにこの学生サークル、何の偶然か建築学科の人間が妙に存在感を発揮しており、 公演のたびにテントを建てていた。上演空間に対する俺の執着(アマチュアリズムやセルフビルドへのこだわり)もこのあたりが原風景となっているのだろう。




















話が逸れた。元に戻そう。筆者は現代の劇場空間への疑義を以下のように提示する。

 昨今の演劇活動は、彩り豊かで美的な情景を見せてはくれるが、上演の場であるホールに対して、なぜそこで演じるのか、そこがほんとうに最もふさわしい場なのかという積極的な問いかけをするものが、めっきりと減ってしまったようで寂しい。これは舞台芸術の想像力が萎えはじめているからかも知れない。しかし、その背後には、芸能を創り上演する立場の人々と、劇場という場を創る建築家との直接的な精神交流が衰弱し、ほとんど共通の言葉を持ちえなくなっているという、不幸な事態の進行をも見ることができる。

ここまでで課題図書「はじめに」のまとめは終わり。
以下は俺の勝手な独り言。


先程も触れたようにこれが書かれたのが1985年、そこから既に四半世紀が過ぎているわけだが、事態は改善していないように思える。いや、むしろ複雑化してる。これは、演劇作品や演劇人の成功モデルが変化したせいでもある、と推測する。

「小劇場→大ホール→映画やテレビの仕事でゲットマネーしつつ舞台にこだわる」

80~90年代における演劇人のサクセスストーリーはこんな感じだったように思う。これが、チェルフィッチュ以降、

「小さくても優れた作品→そのままの規模で海外をツアー」

に変化した。もちろん皆が皆このモデルに追従しているわけではないけど、少なくとも自分の身の周りではそのようなアプローチを採るカンパニーが増えている印象がある。例えば快快は先ごろ上演した「アントン・猫・クリ」において、出演者を少数に絞り、舞台美術等も簡易なものに留め、海外のシアターやフェスティバルへの売り込みやすさ、持ち運びやすさをアピールしていた。
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追記(3/18)
↑とはいうものの快快は前作「SHIBAHAM」に於いては、無謀ともいえる多彩な仕掛け+膨大な事前準備を踏まえたプロダクションを試みており、「アントン~」は、その経験もあっての返し技、と言える。
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グローバル化による交通の活発化と、その一方で同時進行する「趣味の共同体」「解釈共同体」のセグメント化がこのような状況をもたらしていると推測する。

 それぞれのモデルが独立しているのならばさして問題はないように思えるのだが、両者がクロスしたとき事態は厄介なことになる。これは演者だけでなく、作品をセレクションし、お膳立てするプロデューサー側の立場の人間にも再考を促したいところだ。一度に多くのお客さんを呼び込んで自身の注目する作品・作家を紹介したい欲望をそのままにしておくと、空間と作品の相性の悪さが露呈し、結果として作品本来の魅力を削いでしまうことがあるのではないか。

■■

次回 1-2「観ること、観られること」に続く→

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2012年3月10日土曜日

「劇場の構図」熟読

知人に誘われて 清水裕之著「劇場の構図」の読書研究会に参加することになりました。
そのための叩き台として、数回に分けてノートをまとめていきます。




 先ず目次から

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

第1章
1 はじめに
2 観ること、観られること  +追記
3 芸能空間の基本形
4 視軸
5 芸能空間の異化と同化
6 芸能空間の複合型
7 二重の正面性
8 二重の正面性の同化
9 横から観ること、或いは視軸の三角形
10 観客の意識による芸能空間の変容


第2章
1 ギリシア劇場とローマ劇場
2 聖史劇の宇宙
3 ルネサンス
4 バロック劇場の成立と解体
5 近代プロセニアムステージの完成とオープンステージの挑戦
6 近代劇場の解体と重合的劇場空間意識の芽生え


あとがき

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

最初は「え~ 書いたの あの さいたま芸術劇場 の設計者かよ 説得力あんのかよ」などとロクに知りもしないのに子供じみた拒否反応を示してしまったのですが、読み始めてみるとコレ、劇場空間を考えるためのキーワードがよく整理解説されており、教科書としてとても優れている。読みながらアイデアばんばんひらめいた。まずは最初の無礼を詫びますごめんなさい。本当に反省しています。

各項目についてのノートは上記目次にリンクを貼り付けて随時まとめていきます。
(3/10時点で第1章を読み終えた状態)

ここで先ずは俺自身の動機をいくつか述べておきます。

・建築学生兼演劇サークル所属だった若い頃から演劇への興味と同等に劇場空間への興味もそれなりにあったので、(遅きに失したとはいえ)劇場史をひと通りさらっておくことは必要と感じた。

・何となく始めた「悪魔のしるし」の活動も気がつけばそれなりに本格化しつつあり、デカイ話が来れば自然と(この"自然と"がクセモノなんだが)上演会場もデカくなりがち、となると、今までの演出では空間を制御できなくなるのではと恐怖している。

・自分のこれまでの活動を振り返ってみても、物語内容よりも、客席を含めた空間構成に重きを置いている節があり、まあ、天然でやってたんだけど、ここにキチンとした言葉を与えたい。

・目に入ってくる批評・感想のほとんどが近代以降の均質化された客席(という幻想!)を立脚点にしており、そこに対する苛立ちがもうどうにも止まらない。

てな感じでボチボチやっていきます。
一緒に研究していくのはロシア演劇研究者、建築家、そして俺の3人。
もちろん成果はこれからの活動にドンドン反映していくつもり。







2012年3月1日木曜日

【募告】悪魔のしるし 制作スタッフ募集のお知らせ

【募集】
気がつけば規模の広がってきてる活動状況を鑑みて、
我々――演劇(など)を企画・上演するチーム「悪魔のしるし」――は、
制作担当スタッフを新たに募集します。

【期間】
・2012年4月くらいから、新作を上演する9月~後片付け含めだいたい10月くらいまで。
(※もちろん これ以降の長期的参加も歓迎します)

【資格】
特に無いですが、気の持ちようとして「悪魔のしるしをサポートしたい」というよりは、「この世のパフォーミングアーツを巡る環境に寄与・貢献したい」って方向のほうがカッコいいと思います。



【仕事】
 興行をつつがなく成功裡に終わらせること


上演をつつがなく終わらせるのが舞台監督
舞台上の作品に責任を持つのが演出家/主宰

・宣伝広報(フライヤー配布計画、話題作りなど情報戦略)
・スケジュール管理(出演者、各種スタッフ)
・予算編成、管理
・チケット管理
・劇場でのお客さん対応 
・自分じゃ処理しきれない仕事を他のスタッフにドンドン振っていく
・演出家の怠惰、愚痴を諌める(或いは歯牙にもかけない)
・今後に向けての企画立案(長期の場合) などなど

【報酬】
公演終了時にスタッフへの謝礼を支払います。
動員次第ではありますが、正直に申し上げて雀の涙程度です。

こんなの何の慰めにもならないし説得力にも欠けるかも知れませんが、悪魔のしるしでの活動は きっと楽しいと思います。楽しんでもらえるよう我々も努力します。ヘンな知り合いも一杯増えます。

もともと演劇(というか、この国の小劇場界隈)の常識などよく知らないまま素人同然(専門分野ではプロだけど)な人間がクラブ活動的に始めた集団なので、今もアチコチ雨漏りしたり扉のたてつけが悪かったりのバラック小屋ですが、内部空間は結構居心地いいと思います。



【補足】
今まで制作を担当してくれていた
金森香田辺夕子とともにチームで取り組むカタチになります。
ふたりが本業でけっこう多忙なので、
現場でバンバン動ける方だとありがたいです。
ちなみに、金森は広報や予算編成、田辺は会計や編集を主に担当してます。



【連絡先】
興味持たれた方、
まずは以下のアドレスまでお気軽にお問い合せくださいませ。

アドレス:akumanoshirushi@gmail.com
件名:悪魔のしるし制作募集 でおねがいします。


ご連絡お待ちしております。

悪魔のしるし主宰 危口統之