2013年6月26日水曜日

北京旅行記4


前回(北京旅行記3)の続き

天安門広場を一瞥したあと女性衛兵が立番する横を抜けて城門をくぐる。雨がだいぶひどくなってきたが履いてきたのは穴だらけの布靴(CONVERSE)なもんだからあっという間に浸水され靴下まで重い。早く屋内へ入りたいが門を抜けた先はまたしても広場、本丸はまだまだ先である。雨天ながらも土産の行商がたくましく頑張っており、あちこちで声を張り上げている。こんな天気なので傘売りも多い。そして自分は見たこともない代物が売られていることに気づく。写真右側に立つ黒いジャンパーを着た男性に注目してほしい。



頭だけを保護する傘だ。ちょっとした衝撃を受ける。こんなものは見たことがない。見たことはないが、かといって意外でもない。ちょっと工作の心得がある人ならこの程度のものは作られるだろう。しかし、少なくとも日本では誰も思いつかなかった。いや、思いついた人もきっといるとは思うが、商品として流通するには至らなかった。

自分は普段からものぐさで、出歩く時も手ぶらを好むので肩や腰に鞄を掛けることはあっても手には持たない。仕事でもない限りタバコや本より重いものは持たぬ主義だ。そんな性分だから雨が降っていても傘を嫌って濡れるにまかせて歩くこともある。だったらこの珍アイテム、頭傘(?)さえあればいいじゃないか、とは何故か思わない。どうにも格好悪すぎる。となると手ぶら主義などと言ってはみたものの、格好良さを気にする心性の前にこれは跪いてしまうのか。きっとそうなのだろう。個性といい新奇というが、それらもまた我々の手にする常識という名のカタログ、その中の「個性」「新奇」なる項目に配された要素を選んでいるに過ぎない。そんなことを考えながら広場を越え次の城門をくぐる。



くぐった先にはまた広場でその先にまた城門だ。これが洞窟探検映画なら「おい、俺達おんなじところをグルグル回ってるぞ」とパニックになるところである。この辺りでだんだんとこの施設の設計理念のようなものを感受し始める。上の写真に見える楼閣の中に掲げられた平面図を見てそれは確信に変わる。



丁寧にも日本語で解説されているのを見て感心する。
これはそうとこの平面図、図でみると把握できたような気になるが、一区画の大きさが日本とは桁違いなので、図を見たことが逆に災いし歩くときの実感を惑わせる。その点、前回の日記で紹介した地下鉄路線図と似たようなものかもしれない。

故宮博物院は明代に建てられた紫禁城を基とし、途中戦乱による焼失などもあったがその後清朝により復旧せられ、今もなおその姿を伝える。縦軸横軸のみで斜めや曲線など混在しない四角四面な設計は現在の眼からみるとひどく観念的に見えるが、この観念性こそが中国文化を読み解くひとつのポイントとなると考える。後日現代中国を代表する建築家の模型展示を見にいったのだが、そこでも同じような感慨を抱いた。それについてはまた改めて書く。

中国の大きさ、人の多さ、滅びても滅びてもまた文明を立ち上げていく呼吸の深さについて日本人たる自分は理解できない、あるいは理解をどこかで拒否している。ここに留まれば日本で培った調和へのビジョンが甚だしく乱れることになるだろう。日本式の調和と中国式の調和はそれほどまでに違う。同じアジアと括りはされるけれど、荒野から宗教を立ち上げたヘブライの人たちのほうがよほど中国を理解できるのではないだろうか。

日本式の調和とは。
ささやかな実体験に基づくものではあるけど、自分はこれを熊野(古代)〜浄瑠璃寺(奈良・平安時代)〜浄土寺(鎌倉時代)を巡った旅の中で理解した。7年ほど前のことだ。

調和、あるいは世界観と言い換えてもいいが、日本の場合それは彼岸を手懐けていく過程として捉えることができる。古代、熊野は異界であった。山の向こうは黄泉の国として扱われ、森の中では死んだ者に出会うとされた。じっさい、玉置神社に参詣した時には山伏にも出くわし、ここは俗世ではないと気付かされたのだった。当時の日記を転載しておく。

熊野の自然のなかにいるときに感じるのは圧倒的な無力感、いや無力感といってしまうと「役立たず」みたいなニュアンスになるので違う、場違い、疎外感、というほうが近い気がする。俺が居ても居なくても何ら変化しない世界があるんだなーという実感がある。そして、浄瑠璃寺とか、もっと時代を下って竜安寺の枯山水とかでもいいけど、その類いって、人間が自然に対したときに感じるこの厳しい疎外感から目を背けた結果としての自然庭園なんではないか。都合が良すぎるんではないか。イヤミが言うところの「おフランス」みたいなもんじゃないのか。魔女狩りも革命も植民地政策も核保有も移民問題も消去された後の「おフランス」なんではないか・・・という疑念に達した。浄土堂を見られたお陰で。浄土堂は、自然を見て見ぬ振りしながら搾取したりしていない。むしろ正面きってケンカを売っているところがスカッとしててイカす。

最後に浄土寺浄土堂で話がまとまっているのがよく出来た話で、というのもこれを建てたのはかの重源だ。南宋を訪れ当時最先端の仏教文化を吸収し日本に広めた人物、粗雑に喩えてしまうなら、日本で最初のルネサンス的人物だとも言える。日本では重源以降やっと彼岸が理念にまで昇華された。それまで地続きだったり、自分たちの手でミニチュアを作ったりできるものだったのだ、「あの世」というものが。

そして疲れたので続きはまた今度にする。
まだ故宮のチケット売り場にも到着していない。








プロフェッショナル 欺瞞の流儀

……このようにロルカは周囲の誰もを虜にしてしまうようなカリスマの持主であったようだが、ただアルゼンチンの巨匠ボルヘスだけは彼のことをこう評している__「あれはマイナーな詩人ですよ。スペイン的色彩だけの。まあ、言ってみればプロのアンダルシア人ですね」……岩波文庫版『血の婚礼』あとがき

アルゼンチンジジイお得意の寸鉄皮肉によって所謂「プロ市民」レベルにまで貶められたロルカが可哀想な気もするが、英国式の教育を受けたり独裁政権時には冷や飯食わされたりで愛国心を涵養する機会など遂になかったジジイから見れば、故郷の風土を過剰に彩るロルカの振る舞いに嫌味の一つでもいいたくなるのだろう。

でもまあこういう「プロ」ってのはいつだって居るもので、中上健次だって、実のところは土建業を営む裕福な義父から結構な額の仕送りをもらいつつ新宿界隈でフーテン生活してたわけで、なんとなればジジイから「プロの紀州人」と言われても仕方ない。

そして問題なのは肉体労働に身をやつしたとき中上読みながら自己正当化を図った俺自身のことで、元々そういう性格なものだから、さいきん増えたインタビューの機会などでもついつい「プロ」的な発言をしてしまい、後悔するハメになる。

結局何が悪いって、作品と作者を分けて考えられない発想が一番悪い。








2013年6月24日月曜日

北京旅行記3

前回の記事の続き。

サンガツのライブ鑑賞を終え、関係者と少し談笑した後、ひとりで宿へ――市街中心部北寄りに位置する蓬嵩劇場から更に北東方面、地下鉄を乗り継いで30分ほどの場所(望京西)にあるKHのマンションへ向かう。やや不安だったが、路線図のおかげで何とかなった。




装飾的なレンガ積みパターン。中国っぽい、と感じてしまうのはバイアスのせいだろうか。でも、四角い開口がリズミカルに並んでいるのが「喜」の文字を連想させるのは確か。



駅入口〜地下へのエスカレータ〜路線図



北京地下鉄の路線図。
東京と同じようなものだと思うと痛い目にあう。
駅と駅との間が3〜4㎞離れてますから。
京浜東北くらいの駅間距離だと思えばイイ。

とにかく北京はデカい。何よりも先ず面積がデカいのだ。
聞くところによると、西側に丘陵地がある他はひたすら平野が広がってるので、スプロールが止まらないとのこと。冗談だと思うけど、そのうち北京は天津と一体化する、なんて声もあるらしい。それってもはや都市のレベル超えてる。





公共施設に使用される液晶モニタはLGの天下だね。
欧州でもそうだった。




プラットフォームのドアは日本よりも整備が進んでいる。

こうして思い出しながら書いてると、写真をちゃんと撮ってないことに気づいて後悔する。いかにも面白い写真は要らないんだ。そのへんの町並みをちゃんと撮っとくべきだった。でかい道路とデカい街区ブロック、道を挟んで全く異なる開発状況、そういった北京の様態を上手く伝えられる写真を。

マンションすぐ近くにあるKHの職場(建築設計事務所)の前で彼とおちあい、遅めの夕餉を摂った。帰宅後ビールを少し飲んで就寝。青島ではなくハイネケンだった。中国のビールは味が薄くて気に入らないそうだ。



明けて翌朝、KHの薦めもあって旧紫禁城すなわち故宮博物院に行ってみることにした。天気は生憎の雨。朝飯はコンビニで買った缶コーヒー(KIRIN製品)。ものすごく久しぶりにプルタブの缶を見たよ。



地下鉄を乗り継ぎながら市街中心部を目指す。週末ということもあり人出は多い(いや、週末とか関係なく多いのかもしれない)。




目的地に着き地上に出ると目の前が天安門広場だ。因みにあの事件については、知ってる人は当然知ってるけど大きな声じゃ言えない、といった具合らしい。















あの事件の数カ月前、お正月休みに昭和は終わっていて、同じ年の秋にベルリンの壁が崩壊した。ソ連の書記長はゴルビーで、俺は中学生だった。





城門に掲げられた毛同志の写真を目にし、なるほど王朝はまだ続いているのだなと思った。専制が続けられていることに嫉妬する民主主義陣営各国指導者は多いんじゃないかな。それを責めようとは思わないよ、俺は。ただし表には出すなよ。ホンネという易きに流れるなかれ。

そもそも王朝体制が続くことがそのまま民衆の愚かさを証明するとは絶対に思わない。彼らは数千年にわたって支配者たる王朝が興っては滅ぶのをつぶさに見てきたのだ。その上で育まれた知恵が市井の人々には備わっていると俺は思う。そしてその一端として現れているのがコピー、イミテーションの氾濫だとも考える。知的財産権の問題は普遍的な倫理に訴えても仕方がない。これは生きる知恵、そのかたちの問題なのだ。

これにひきくらべ中国は、滅亡に対して、はるかに全的経験が深かったようである。中国は数回の離縁、数回の姦淫によって、複雑な成熟した情慾を育まれた女体のように見える。中華民族の無抵抗の抵抗の根源は、この成熟した女体の、男ずれした自信ともいえるのである。彼らの文化が、いかに多くの滅亡が生み出すもの、被滅亡者が考案するもの、いわゆる中国的叡智をゆたかにたくわえているか、それは日本人には理解できないほどであろう ___武田泰淳『滅亡について』


話は飛ぶが、一昨日友人たちを誘ってロシア映画『エルミタージュ幻想』の上映会を行った。これもまた滅亡(この作品の場合はロマノフ王朝)経験を踏まえて作られた作品だ。鑑賞後友人たちと、こんな映画を日本で作るとしたらどんなロケ地で、どんな対象を撮るべきかと話し合った。京都御所か、二条城か、もしまだ残っていたなら江戸城で徳川幕府史を扱うか……そうして、我々にはこれといった滅亡の(とうぜん革命も)経験がないことに改めて気づくのだった。どこまで行っても成り成りて、だ。


泰淳とはまた違った、しかし同じくらいかそれ以上に巨きな眼で中華史を見つめ続けた碩学の言葉を引いてみる。

しかしそれにも増して悲しむべきことは、彼の涙ぐましいほどの善意にあふれた政治も、それが独裁君主制という形をとったために、報いられることが案外に少かったばかりでなく、予期に反した逆効果さえ生んだ点であろう。思うに中国に数千年もの間、専制君主制が続いてきたのは、それがある程度の柔軟性を持ち、時代の進歩に適応して進歩してきたためである。もしも君主制が何の理想も持たず、全く恣意的な無軌道のものであったり、或いは堅い殻のように固定したもので人民を抑えつけているのであったなら、いかに辛抱強い中国民衆でも、それを打ち破って新しい政治様式を造り出したに違いない。幸か不幸か、そこへ歴代の、いわゆる名君なるものが現れて、たえず君主制の理想と実施とに改良を加え、無言の大衆の信頼をつないできた。雍正帝の独裁政治はまさにその絶頂に位する。そして独裁制に信頼する民衆は独裁制でなければ治まらないように方向づけられてしまった。これは中国人民にとってまことに悲しむべき結果である。この点からいえば、雍正帝の政治は正に善意にあふれた悪意の政治と言わなければならない。しかもこの種の善意に満ちた悪意の悲劇はまだすっかり終わってはいない。そして大きな歴史の裁きを待っているのである____宮崎市定『雍正帝』

これは清朝五代皇帝をつとめた雍正帝の伝記、その結びの文章で、書かれたのが1950年というから、「しかもこの種の善意に満ちた悪意の悲劇はまだすっかり終わってはいない」というのが何を指しているのかは明らかだ。この8年後に大躍進政策、そして16年後には文化大革命が始まる。

まだ故宮の城門をくぐってもいないのに力尽きた。続きはまた改めて。





























2013年6月18日火曜日

北京旅行記2





前回の続き

スパゲッティ喰ったあとはKHも職場に戻ってしまいひとりですることもない。劇場にWi-Fi環境はあったものの、SNSやブログは規制されていて繋がらないし、なんだか疲れたのでひたすら寝ていたのだが、周りがにぎやかになったのに起こされ開演時間が近いことを知る。

そしてライブが始まった。
演奏の様子はこちらを参照されたし(クリックするとFlickrに飛びます)。


Beijing_Sangatsu_2013



ここでひとつ告白しておかねばならないのだが、実は、俺はサンガツの生演奏の音がちょっと苦手なのだ。最初に断っておく。

(ちなみにCDは愛聴してて、特に『5つのコンポジション』はしょっちゅう聴いている)



以前、まだ知り合ったばかりの頃だがサンガツの小泉さんに「ハムバッキングのギターは使わないんですか?」と訊いたことがある。小泉さんのギターはフェンダー製でシングルコイルだ。

何のことやら?な人のために説明する。
エレキギターは弦の振動をボディに埋め込まれたピックアップという装置で拾い、これを信号に変えて出力しているのだが「シングルコイル」とか「ハムバッキング」というのはこのピックアップの種類のこと。一般にシングルはキレが良いというか、音の粒がクリアで、ハムはモコモコっとした感じ。チョコで言うと、きのこの山とたけのこの里くらい違う。果てしなく違う。



シングルの音は、ほんとうに単なる音というか、そのままでは意味を成さず、きちんと構成(コンポジション)することなしに音楽には至れない。つまり音楽以前の音、物音に近いということだ。一方でハムの音は、あらかじめ音楽に使われることを想定した上で作られている様に思う。もちろんこんなのは自分勝手な捉え方なのだが、ギターが好きな人にはなんとなく分かって貰えるのではないかとも思う。

そう考えると、サンガツはいうなれば、音楽が生まれる瞬間を都度目指している、ということもできる。となると、これは俺が舞台でやってることにも近いのではないか。俺自身、演劇というものが既にあると思っている人、「演劇道」みたいなものがありそれを歩みたいと思っている人、仕事として演劇でメシを食っている人…との意識の違いにこれまで悩んできたが、こと音楽に関しては俺もそれが「ある」という前提に立ってしまっている。ヘヴィメタルという、「演劇くさい音楽ジャンル」が大好きなことからもそれは分かる。

(「演劇」という言葉の意味するところに対する俺の関心の持ち方の面倒くささには自分でも辟易している……)

俺は音楽には甘い夢しか求めていない。聴いてる時だけ無敵感を味わえればそれでいい。だからサンガツの演奏の、あの、シングルコイルのキンキンした音、ハイハットやシンバルのシャリシャリした、あと一歩で黒板を引っ掻く音になりそうなあの即物性というのが結構つらい。根本的なところで俺には音楽、ついでに言えば色彩のセンスが無い、それはよく思う。

中国とあまり関係がない話題になってしまった。
続き(ライブの翌日故宮博物院に行ったことことなど)も近いうちに書きます。


















2013年6月17日月曜日

北京旅行記1










支那人を書くということは簡易な事でもなく浅墓なことでもなく景気のよい事でもありません。しかし現在では、支那人を書くということは恐らく世界の各民族にとって一つの課題となっているのではないでしょうか。ある国が支那人を書くということはその国の文化的表情を示すことになります。その国の知性の成長を示すことになります。支那人を書くということはそれ故決定的な力を持った事なのです。それなのに、どうして日本人はアメリカ人の作品(パール・バック『大地』のこと/危口注)を読んで満足せねばならなかったのでしょうか。古代支那人の書いた記録の注釈書が老大家によって学生に講義されている東京で、私共は何処の書店に行ったら支那人を書いた日本の小説を買うことができるのでしょうか

  __ 武田泰淳『支那文化に関する手紙』より引用


これ1940年というから今から70年以上前に書かれた文章だけど、現代では取扱注意である「支那」という単語を抜きにすれば昨日誰かがブログに書いた文章だと教えられても驚かない。中国って中国人って一体何だ知りたい知っときたい知られるのか。というわけでたった数日間ではあるものの現地で過ごす機会を得たことだし彼の顰に倣って(小説じゃないけど)記録をつけてみる。




大学時代の後輩で三年ほど前から北京の設計事務所で働いているKHから最近仕事場で出世して生活にも余裕がでてきたんで何かやりたいんすよ良かったら一度来ませんかと連絡を貰ったのが去年のことで以来訪中のタイミングを伺っていたのだが折よく悪魔のしるしのマネジメント担当Oさんが音楽バンド「サンガツ」の北京公演にツアーマネージャーとして協力することになったのでこれに帯同することにした。

トランクなど持たず適当な鞄二つに着替えやら文庫本やら詰め込んでエイヤとばかりに飛行機乗って着いたのが割と最近出来たばかりの北京国際空港第3ターミナルで設計はかのノーマン・フォスター卿であらせられる。KH曰く北京五輪に合わせゴリ押しで建てまくった新施設の中でもこれは設計施工ともに大成功の部類だそうで確かに気持ちのよい建物、大スパンを僅かな細い柱だけで支えてて非常に開放的、そして天井を覆う無数のルーバー、そこから透過する光が繊細さを演出。






ゲートがかなり混んでいて時間がかかってしまったけど無事入国、迎えに来てくれていたKHとともにタクシーで北京市街へ。






せっかくなので写真をたくさん撮る撮る撮るが目につくのは矢張り自転車とスクーター、そのほとんどが電動でヘルメットはもちろん免許もいらないもんだからとにかく大量に走っている。幼い頃北京に抱いていたイメージは大量の黒塗り自転車の群れだったけど勢いはそのままで現在は自動車と電動二輪に置き換わってるもんだから交通渋滞がひどく大気汚染が進行しているという報道は日本でも話題になっている。本当は一人一台という規制があるのだが偽造ナンバーが大量に出回っていたり役人の汚職が酷かったりで効果が無いそうだ。こういう事例はその後何度も目にすることになる。

ちなみに街で見かける自動車の殆どはドイツ製か日本製で国産車は全くといっていいほど居ない。聞けばフレームが鉄じゃなくて樹脂だか何だかで出来てて強度的に相当まずい(段ボール箱レベル)らしくとてもじゃないが怖くて乗れないとのこと。



自動車といえばこれもKHが実際に見てきた話なのだが地方の農村ではホントに何の娯楽も無いもんだから若者たちが30年とかの無茶なローンを組んで高級車を買っちゃったりするそうで、しかし運転は荒っぽいもんだから数年のうちにボロボロにしちゃったりして兎に角「終わってる(KHの口癖)」とのことで、こちらとしても寂しいような笑っちゃうような根拠も意味もなく「アメリカが悪いんや!」などと言ってしまいたいような気分に。なんでそーなるの、と死後硬直気味のギャグでも口にするしか無い。

この日の夜がサンガツの北京公演初日ということで、宿となるKHのマンションには寄らずそのまま会場である蓬嵩劇場(peng hao theater)に向かう。




胡同(フートン)と呼ばれる古い路地の密集する区域にある蓬嵩劇場。五輪などでかなり整理されてしまったそうだが、まだ市内にはこうした路地が幾つかあり、手付かずのまま残っている所もあれば綺麗にリノベされ観光地化された所もある。劇場周辺は両者の間〜やや観光地寄り、といった状態だった。





蓬嵩は北京で初めての民営劇場だそうで、社会制度が複雑に絡みあうこの国、しかも政治色の強い北京で斯様な試みを維持している関係者には頭がさがる思いだ。



本番を前にして準備中のサンガツメンバー皆さんと対面。



おそらく四合院の中庭にあった樹をそのまま残したものと思われる。





劇場に併設されたカフェ。メニューはオシャレな感じ、値段もやや高め。
腹ペコだったのでひとまずスパゲッティボロネーゼを食べた。



およそ日本的とはいえない梁組。見た感じそんなに古くないかも。
そしてサンガツのライブが始まるわけだが、感想は次回にします。

→続き http://akumanoshirushi.blogspot.jp/2013/06/2.html?spref=fb