前回の記事の続き。
サンガツのライブ鑑賞を終え、関係者と少し談笑した後、ひとりで宿へ――市街中心部北寄りに位置する蓬嵩劇場から更に北東方面、地下鉄を乗り継いで30分ほどの場所(望京西)にあるKHのマンションへ向かう。やや不安だったが、路線図のおかげで何とかなった。
装飾的なレンガ積みパターン。中国っぽい、と感じてしまうのはバイアスのせいだろうか。でも、四角い開口がリズミカルに並んでいるのが「喜」の文字を連想させるのは確か。
駅入口〜地下へのエスカレータ〜路線図
北京地下鉄の路線図。
東京と同じようなものだと思うと痛い目にあう。
駅と駅との間が3〜4㎞離れてますから。
京浜東北くらいの駅間距離だと思えばイイ。
とにかく北京はデカい。何よりも先ず面積がデカいのだ。
聞くところによると、西側に丘陵地がある他はひたすら平野が広がってるので、スプロールが止まらないとのこと。冗談だと思うけど、そのうち北京は天津と一体化する、なんて声もあるらしい。それってもはや都市のレベル超えてる。
公共施設に使用される液晶モニタはLGの天下だね。
欧州でもそうだった。
プラットフォームのドアは日本よりも整備が進んでいる。
こうして思い出しながら書いてると、写真をちゃんと撮ってないことに気づいて後悔する。いかにも面白い写真は要らないんだ。そのへんの町並みをちゃんと撮っとくべきだった。でかい道路とデカい街区ブロック、道を挟んで全く異なる開発状況、そういった北京の様態を上手く伝えられる写真を。
マンションすぐ近くにあるKHの職場(建築設計事務所)の前で彼とおちあい、遅めの夕餉を摂った。帰宅後ビールを少し飲んで就寝。青島ではなくハイネケンだった。中国のビールは味が薄くて気に入らないそうだ。
明けて翌朝、KHの薦めもあって旧紫禁城すなわち故宮博物院に行ってみることにした。天気は生憎の雨。朝飯はコンビニで買った缶コーヒー(KIRIN製品)。ものすごく久しぶりにプルタブの缶を見たよ。
地下鉄を乗り継ぎながら市街中心部を目指す。週末ということもあり人出は多い(いや、週末とか関係なく多いのかもしれない)。
目的地に着き地上に出ると目の前が天安門広場だ。因みにあの事件については、知ってる人は当然知ってるけど大きな声じゃ言えない、といった具合らしい。
あの事件の数カ月前、お正月休みに昭和は終わっていて、同じ年の秋にベルリンの壁が崩壊した。ソ連の書記長はゴルビーで、俺は中学生だった。
城門に掲げられた毛同志の写真を目にし、なるほど王朝はまだ続いているのだなと思った。専制が続けられていることに嫉妬する民主主義陣営各国指導者は多いんじゃないかな。それを責めようとは思わないよ、俺は。ただし表には出すなよ。ホンネという易きに流れるなかれ。
そもそも王朝体制が続くことがそのまま民衆の愚かさを証明するとは絶対に思わない。彼らは数千年にわたって支配者たる王朝が興っては滅ぶのをつぶさに見てきたのだ。その上で育まれた知恵が市井の人々には備わっていると俺は思う。そしてその一端として現れているのがコピー、イミテーションの氾濫だとも考える。知的財産権の問題は普遍的な倫理に訴えても仕方がない。これは生きる知恵、そのかたちの問題なのだ。
これにひきくらべ中国は、滅亡に対して、はるかに全的経験が深かったようである。中国は数回の離縁、数回の姦淫によって、複雑な成熟した情慾を育まれた女体のように見える。中華民族の無抵抗の抵抗の根源は、この成熟した女体の、男ずれした自信ともいえるのである。彼らの文化が、いかに多くの滅亡が生み出すもの、被滅亡者が考案するもの、いわゆる中国的叡智をゆたかにたくわえているか、それは日本人には理解できないほどであろう ___武田泰淳『滅亡について』
話は飛ぶが、一昨日友人たちを誘ってロシア映画『エルミタージュ幻想』の上映会を行った。これもまた滅亡(この作品の場合はロマノフ王朝)経験を踏まえて作られた作品だ。鑑賞後友人たちと、こんな映画を日本で作るとしたらどんなロケ地で、どんな対象を撮るべきかと話し合った。京都御所か、二条城か、もしまだ残っていたなら江戸城で徳川幕府史を扱うか……そうして、我々にはこれといった滅亡の(とうぜん革命も)経験がないことに改めて気づくのだった。どこまで行っても成り成りて、だ。
泰淳とはまた違った、しかし同じくらいかそれ以上に巨きな眼で中華史を見つめ続けた碩学の言葉を引いてみる。
しかしそれにも増して悲しむべきことは、彼の涙ぐましいほどの善意にあふれた政治も、それが独裁君主制という形をとったために、報いられることが案外に少かったばかりでなく、予期に反した逆効果さえ生んだ点であろう。思うに中国に数千年もの間、専制君主制が続いてきたのは、それがある程度の柔軟性を持ち、時代の進歩に適応して進歩してきたためである。もしも君主制が何の理想も持たず、全く恣意的な無軌道のものであったり、或いは堅い殻のように固定したもので人民を抑えつけているのであったなら、いかに辛抱強い中国民衆でも、それを打ち破って新しい政治様式を造り出したに違いない。幸か不幸か、そこへ歴代の、いわゆる名君なるものが現れて、たえず君主制の理想と実施とに改良を加え、無言の大衆の信頼をつないできた。雍正帝の独裁政治はまさにその絶頂に位する。そして独裁制に信頼する民衆は独裁制でなければ治まらないように方向づけられてしまった。これは中国人民にとってまことに悲しむべき結果である。この点からいえば、雍正帝の政治は正に善意にあふれた悪意の政治と言わなければならない。しかもこの種の善意に満ちた悪意の悲劇はまだすっかり終わってはいない。そして大きな歴史の裁きを待っているのである____宮崎市定『雍正帝』
これは清朝五代皇帝をつとめた雍正帝の伝記、その結びの文章で、書かれたのが1950年というから、「しかもこの種の善意に満ちた悪意の悲劇はまだすっかり終わってはいない」というのが何を指しているのかは明らかだ。この8年後に大躍進政策、そして16年後には文化大革命が始まる。
まだ故宮の城門をくぐってもいないのに力尽きた。続きはまた改めて。