前回の記事の続き。
今週末〜来週にかけてのイベントの予約が寒波に見舞われているとの情報が事務方より届いたので慌てて付け焼き刃の焼きごてを入れた素材を一夜漬けにし、その待ち時間で縄を編む所存。
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MOSHについて。
単に好きだから好きで終わらせてもいいのだが、それだと余りにも個人的すぎてイベントに仕立て上げるには足らないので、これはこれで拡がりのある題材なのだと伝えてみたい。
ハードコアパンクという音楽ジャンルは、もともとパンクロックから生まれたものなので、その根底には水平的な思想がある。ステージ上で演奏するバンドは観客が属する階級の代弁者・代表者であり、舞台と客席のあいだの垣根は低い。彼が俺であったかもしれない、そう思える雰囲気がある。この場合、粗野な歌や未熟な演奏、レコードのひどい音質などは美点なのだ。
バンドが売れてビッグになっていくと現実的には垣根が設けられることになるが、それでも「精神的には垣根なんてないんだ」という幻想を提供し続ける。
これはこれで搾取のひとつの在り方だと批判してもいいんだけど、ファンの健気な想いを蔑むことなしに批判するのには繊細な手つきが求められるだろう。
月イチくらいでライブハウスに出演していたような時期が、僕にも少しだけあったのだけど、ハードコア好きなんて数としては少ないし、だからフロア(客席)はバンドマンだらけだった。まあ、これは階級的な話ではなく、たんにシーンの狭さについての話なので、論点としてはちょっとズレるか。
代表者の交換可能性、不可能性について考えることはそのまま民主主義の話にもつながっていきそうだ。我々の階級・利害を代表し拡散してくれる代表者と、われわれ自身との違いは何なのだろうか。
結局は技芸ということになるのかな、と思う。
メッセージを言葉や音楽という形に落とし込み、アピールする能力、それは万人が手にしうるものではない(けど、パンクの場合は、その能力が誰にでもあるんだということが幻想として提供される……「若者の叫び」や「主婦の声」、「弱者の政治」を標榜する政党ぽいと言えなくもない)
「万人が手にしうる」という幻想は、僕も好きだ。が、これは一種の信仰告白で、であるからこそ、その不可能性についてもよく知っている(不可能なものへ、それとわかりつつ身を投じるのが信仰である)。
僕はハードコアパンクと同じようにヘヴィメタルも好きだが、聴くときの感覚は微妙に違う。パンクが現実にとどまりその中での抵抗を呼びかけるのに対し、メタルは現実世界からの逃避として表現される。だからコンサートもある種カルト的、戯画的なところがある。
前田日明がプロデュースした「The Outsider」をパンクだとするならば、メタルはプロレスのWWEのようなものだ。観客は幻想を幻想と知りつつ、その構築のされ方を技芸として愉しんでいる。観客の様態としては「崇拝」「応援」「鑑賞」「(英雄的な存在への)同一化」などが挙げられるだろう。
MOSHがどのような動機で為されるのかは、時代ごと、地域ごと、音楽ジャンルごとで微妙に違うような気がする。音楽的にも相互に影響してきた歴史があるせいで、ハードコアもメタル(特にTHRASH METAL以降の過激なメタル)も今ではライブの雰囲気にそれほど大きな違いがあるようにも見えないが、最終的な現れ方が似ていたとしても、そこに至る過程は詳細に比較検討する必要がある。
今ではどちらのジャンルでも、ライブではMOSHするもの、という意識が共有され、つまりお約束になっている。もちろんこの点に関しても僕は批判するつもりはない。お約束だとしても、そこに血が通っている限りは生きている形式なんだから。
観客同士の連帯意識、というのはメタル/ハードコア双方に共通して見いだされる特徴だ。MOSHがその醸成に一役買っているのは間違いないだろう。少々手荒な作法ではあるが、これは一種の度胸試し、イニシエーションのようなものかもしれない。このバンドが、この音楽ジャンルが好きならば、我々のMOSHの輪に飛び込んでこい!
もうこの頃には、舞台上の演奏者たちはグル化している。代表者と我々の間にある交換可能性は潰えている。ちょっとさみしい。
メタルのライブに限って言えば、僕はMOSHではなくエアギターないしはヘッドバンギング派だ。これもやはり信仰告白になるのだが、好きなモノは自分ひとりで好きなのであって、無理に仲間を探す必要はないと決めているのだ。神に対して向かうときが人間いちばん孤独なのだ、そう考えている。
好きなバンド=神 だなんて本気で信じてるわけじゃないけど。
とにかく、MOSHについて考えることは、そのまま観客論になるし、ひいては上演藝術論になる、そう言いたかった。興味をもった方はお気軽にご参加くださいませ。お待ちしてます。
今週末〜来週にかけてのイベントの予約が寒波に見舞われているとの情報が事務方より届いたので慌てて付け焼き刃の焼きごてを入れた素材を一夜漬けにし、その待ち時間で縄を編む所存。
core of bellsのコンテンポラリーモッシュ講座! 〜moshing frontier 2000〜
2014年2月15日(土)13:00〜/16:00〜/19:00〜
2月16日(日)13:00〜/16:00〜/19:00〜
(※各回約2時間)
(※開場は各回とも講座開始15分前から)
2月16日(日)13:00〜/16:00〜/19:00〜
(※各回約2時間)
(※開場は各回とも講座開始15分前から)
講師:core of bells、危口統之
会場:SNAC
料金:1,000円(参加/見学を選べます)
料金:1,000円(参加/見学を選べます)
『怪物さんと退屈くんの12ヵ月』第二回公演「moshing maniac 2000」
2014年2月19日(水)
open 19:00 / start 20:00(BGM 21:00~)/ close 22:00
open 19:00 / start 20:00(BGM 21:00~)/ close 22:00
会場:六本木 SuperDeluxe
料金:予約2,500円 / 当日2,800円 (1D付)
料金:予約2,500円 / 当日2,800円 (1D付)
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MOSHについて。
単に好きだから好きで終わらせてもいいのだが、それだと余りにも個人的すぎてイベントに仕立て上げるには足らないので、これはこれで拡がりのある題材なのだと伝えてみたい。
ハードコアパンクという音楽ジャンルは、もともとパンクロックから生まれたものなので、その根底には水平的な思想がある。ステージ上で演奏するバンドは観客が属する階級の代弁者・代表者であり、舞台と客席のあいだの垣根は低い。彼が俺であったかもしれない、そう思える雰囲気がある。この場合、粗野な歌や未熟な演奏、レコードのひどい音質などは美点なのだ。
バンドが売れてビッグになっていくと現実的には垣根が設けられることになるが、それでも「精神的には垣根なんてないんだ」という幻想を提供し続ける。
これはこれで搾取のひとつの在り方だと批判してもいいんだけど、ファンの健気な想いを蔑むことなしに批判するのには繊細な手つきが求められるだろう。
月イチくらいでライブハウスに出演していたような時期が、僕にも少しだけあったのだけど、ハードコア好きなんて数としては少ないし、だからフロア(客席)はバンドマンだらけだった。まあ、これは階級的な話ではなく、たんにシーンの狭さについての話なので、論点としてはちょっとズレるか。
代表者の交換可能性、不可能性について考えることはそのまま民主主義の話にもつながっていきそうだ。我々の階級・利害を代表し拡散してくれる代表者と、われわれ自身との違いは何なのだろうか。
結局は技芸ということになるのかな、と思う。
メッセージを言葉や音楽という形に落とし込み、アピールする能力、それは万人が手にしうるものではない(けど、パンクの場合は、その能力が誰にでもあるんだということが幻想として提供される……「若者の叫び」や「主婦の声」、「弱者の政治」を標榜する政党ぽいと言えなくもない)
「万人が手にしうる」という幻想は、僕も好きだ。が、これは一種の信仰告白で、であるからこそ、その不可能性についてもよく知っている(不可能なものへ、それとわかりつつ身を投じるのが信仰である)。
僕はハードコアパンクと同じようにヘヴィメタルも好きだが、聴くときの感覚は微妙に違う。パンクが現実にとどまりその中での抵抗を呼びかけるのに対し、メタルは現実世界からの逃避として表現される。だからコンサートもある種カルト的、戯画的なところがある。
前田日明がプロデュースした「The Outsider」をパンクだとするならば、メタルはプロレスのWWEのようなものだ。観客は幻想を幻想と知りつつ、その構築のされ方を技芸として愉しんでいる。観客の様態としては「崇拝」「応援」「鑑賞」「(英雄的な存在への)同一化」などが挙げられるだろう。
MOSHがどのような動機で為されるのかは、時代ごと、地域ごと、音楽ジャンルごとで微妙に違うような気がする。音楽的にも相互に影響してきた歴史があるせいで、ハードコアもメタル(特にTHRASH METAL以降の過激なメタル)も今ではライブの雰囲気にそれほど大きな違いがあるようにも見えないが、最終的な現れ方が似ていたとしても、そこに至る過程は詳細に比較検討する必要がある。
今ではどちらのジャンルでも、ライブではMOSHするもの、という意識が共有され、つまりお約束になっている。もちろんこの点に関しても僕は批判するつもりはない。お約束だとしても、そこに血が通っている限りは生きている形式なんだから。
観客同士の連帯意識、というのはメタル/ハードコア双方に共通して見いだされる特徴だ。MOSHがその醸成に一役買っているのは間違いないだろう。少々手荒な作法ではあるが、これは一種の度胸試し、イニシエーションのようなものかもしれない。このバンドが、この音楽ジャンルが好きならば、我々のMOSHの輪に飛び込んでこい!
もうこの頃には、舞台上の演奏者たちはグル化している。代表者と我々の間にある交換可能性は潰えている。ちょっとさみしい。
メタルのライブに限って言えば、僕はMOSHではなくエアギターないしはヘッドバンギング派だ。これもやはり信仰告白になるのだが、好きなモノは自分ひとりで好きなのであって、無理に仲間を探す必要はないと決めているのだ。神に対して向かうときが人間いちばん孤独なのだ、そう考えている。
好きなバンド=神 だなんて本気で信じてるわけじゃないけど。
とにかく、MOSHについて考えることは、そのまま観客論になるし、ひいては上演藝術論になる、そう言いたかった。興味をもった方はお気軽にご参加くださいませ。お待ちしてます。