2013年7月13日土曜日

キューバ・メタル・フェスティバル

「本当の音楽ならば子供からお年寄りまでその良さが伝わるはず」と言われ、ずいぶん不愉快な気持ちにさせられた。これは何も音楽に限った話ではないし、というかそもそも俺は、宮沢賢治のあの健気な「ほんたう」は別として、「本当の◯◯」という物言いが嫌いだ。

本当の音楽、本当の演劇、本当の芸術、と何を代入してもいいが、気易く「本当」を口にする素朴な権威崇拝に、国旗国歌を慌てて法制化した我らが政府の貧しさと同質のものを感じ、なぜ一介の蓼食う虫でいられないのか疑問に思うとともに、いち早く安全地帯を確保した上で乗り遅れたものを嗤おうとする、朝の通勤電車でよく見かける風景を思い出しうんざりもする。

「おはようからおやすみまで」なるコピーには当然日中も含まれており、少々クドく書き換えれば「おはようから(こんにちはは勿論のこと)おやすみまで」となるのだが、「子供からお年寄り、もちろん壮年、青年、中年の方々も」などと逐一列挙しだすと、性別や人種やハンディキャップ(障「がい」)や属する時代や地域の違いについても言及すべきではないかと疑問を呈されることもあるだろうし、何より、そのような良識溢れる言いがかりを付ける連中こそ普段は「本当の」だの「子供からお年寄りまで」だのと口にしている気がしてならない。

以前自分たちの作品について「内輪受け」と評され、それはある程度は分かってやっていたことだし、だから批判も正面から受け止めることしか出来ないのだが、この話を知人としている折に、半ばヤケになっての発言だが「そこらにある他の作品だって視覚や聴覚に問題のない人を前提にしてるじゃないか」などとほざいてしまい呆れられてしまったのだが、ことを根っこから考えたいのなら、これだって無視できる問題じゃないだろうとも思う。

「作品は人を選ぶ」で開き直れと言いいたいわけではない。しかし結果として選別は作動するのだし、それを覚悟しないまま発表など出来るわけもない。「普遍性」や「芸術を愛好する市民社会」などが理念でしか無いことを重々承知しつつ(汝の隣人、いや自身をよくよく見給え)、所詮「内輪受け」でしかないのなら、その「内輪」の輪郭線の描く軌跡に自覚的であればよい。

かねてより気になっていた上映会のため、六本木のライブハウス「新世界」に足を運ぶ。

映画:君はBRUTAL FESTIVALを知っているか!

内容:カリブ海に浮かぶ島国であり今となってはかなり少なくなってきた社会主義国家でもあるキューバにて年に2回開催されるヘヴィメタル音楽のフェスティバル『Brutal  Festival』の、今年2月に開催された時の様子をこのジャンルじたいについては殆ど素人の日本人が撮影・編集したドキュメント映画

http://shinsekai9.jp/2013/07/08/cubamovie/
http://brutalfest.com


この日いちにちだけ、たった二回の上映会なので、それなりの混雑を予想していたのだが、会場には自分を含めて10人もいない状況で、やや拍子抜けするものの、トークゲストが招かれていた初回の上映はもしかしたら盛況だったのかもしれない。ともあれ、タバコをふかしながら映画を見られる環境を喜び、スクリーンに集中する。はじめは前座、フランスやデンマークから参加したバンドの演奏の様子が、ときおりプロフィール紹介などを交えながら淡々と併置されていくのだが、正直言ってどのバンドもショボく、これならばかつて足繁く通っていた高円寺や新宿界隈のアマチュアバンドのほうが余程かっこよく演奏力も高い。しかし彼らが無価値かといえばそうではなく、「枯れ木も山の賑わい」の諺が示す通り、ショボいバンドがたくさんあるお蔭でシーンだって盛り上がるのだし、上位バンドも安心して音源を発売できるのだ。

この時点で、現在自分が活動しているパフォーミングアーツ領域と比較しながら映画を観ていたのだが、続いてフェス運営者のインタビューが始まるに及んで、両者の区別はいよいよ曖昧になっていく。社会主義を採るキューバでは大衆音楽もまた政府の支援=監視のもとで運営されており、これを一手に引き受けるのが「キューバロック機構」である。Brutal Festはこの政府系外郭団体と、地元のレコードレーベルではあるがフランスからの居住者が創始した「BFF」によって共同主催されている。過激な衣装や演奏を披露するバンドメンバーもインタビューの場では「助成がないとやっていけない」「いまメキシコに滞在できるよう政府に申請をしているんだ」と率直に語っており、個人的には感情移入して余りある。

「音楽(芸術)はかくあるべし」とは別の、のっぴきならない次元で我々は活動していくため支援者の顔色をうかがいつつ、時に自己欺瞞も辞さない態度で、口八丁のノウハウを蓄積していくのだが、こんなことは作品を享受する人にとってはどうでもいいことではある。気が向いたら続きを書く。