2013年8月15日木曜日

えがく喜び

似顔絵を描いてうまくいったとき、描かれた相手やその様子を見ていた周りのひとは、わあ凄い、似てるねえと言ってくれる。ところが自分はそういわれる度に心中穏やかでなくなり、そうじゃないと叫びたくなっていたりする。いや、もちろん褒められたら嬉しいし、相手に他意はないのは承知している。ただ、似てる似てないでしか絵を観られないのは寂しいことだと思っている。



絵は、人間が時間をかけて作成する図の一種で、この「時間をかけて」というのがけっこう大事な点である。別に、何年もかけて完成させろと言ってる訳じゃなくて、ボールペンでササッと描いた絵、それが出来るまでの刹那も時間だ。その時間のうちに自分の眼と手(と、それらを繋ぐ思考)が運動した軌跡として、絵はある。

実のところ、絵を愛し自らも嗜む人間の多くは、結果としての軌跡ではなく、運動を愛している。だから観る人にもそれを感じて欲しいと思っている。全体像として絵が何をかたどっているかではなく、絵筆が、ペンが、いかに躍動したかを想像して欲しい。残された足跡から、その場で行われたダンスを思い起こし、その想像の中で鑑賞するように愉しんで欲しい。

だから、極端にいえば何が対象として描かれたかはそれほど重要ではないのだ。

しかし、我々は単なるジャンプやジョギング、腕立て伏せや腹筋をスポーツとして鑑賞するほど暇ではなかったりもする。サッカーや野球や相撲の試合を観るとき、我々は勝敗や様々な記録、得失点差や打率や優勝回数をも気にしながら、選手の(肉体の)勇躍を味わっている。

勝利への意思なくして選手の運動も発生しないのと同様に、何かを描こうとする意思なくして絵筆の運動も発生しない。これが大きなジレンマとしてある(もちろんその限界を越えようとする試みが為されてきた歴史もあるが、ひとまずここでは措いとく)。



自分は、器用貧乏だなと自嘲しつつ、絵を描いたり下手なギターを弾いたり、それよりも更に下手なピアノをときどき弾いたり、あと、こうして文章らしきものをしたためたりもしている。ヘタでもガキの頃からずっとやっていれば運動の愉しさもだんだんわかってくる。だから、より多くの人にこちらに来て欲しいなと想いながら、ものを作っている。

完成した図を観てあれこれ言うのではなく、それがある程度の製作時間を要した手仕事の結果であることを知りつつ愛でることが出来るひとを増やしたい、という気持ちがある。リテラシーとはそういうことじゃないのか。

チマブエ《十字架のキリスト》の部分のマリア像 


自分が描いた似顔絵を見て、描線の躍動を観てくれるひと、あるいは批判するにしても、ボールペンじゃなくて木炭で描いたほうがアンタの手の運動はもっと活き活きと伝わるんじゃない?などと楽しそうにいってくれる人を増やすために、これからも活動していきたい。

アンリ・マティス「生きる喜び」

なんだかひどく単純なことしか言ってない気もするが、というか、実際にそうなんだけど、大事なことなので自分に言い聞かせるように書いた。