2014年1月20日月曜日

最近の様子

新年あけましておめでとうございます。
悪魔のしるし主宰の危口です。
今年もよろしくお願い致します。

年明け以降は次回作のため郷里倉敷に逗留し、家事手伝いなどしつつぼんやりと準備を開始しているところです。ろくに仕事もせず読書三昧、そして父に命じられるまま庭木の剪定などしながら落ち着いた生活を満喫しているのですが、ツイッターなどから在京の友人知人たちの様子を窺い知ることもできて、やはり東京にはたくさん催しがあるなあ、と離れてこその実感もあります。

僕はもともと活動的な性格ではないし、様々な催しの様々な評判など目にしても、結局足を運ばずじまいで、それは結局どこにいても変わりないのですが、それでも多少の刺激は欲しいということで、昨日は近所の健康ランドでかかっている大衆演劇を観に行きました。

大衆演劇。ただの名前といわれれば、まあ、そうなのですが、それでも「大衆」の一語を冠したジャンルというのは、助成金や現代小劇場解釈流通共同体の恩恵に与っている身としては、ちょっとした緊張を感じずにはいられません。大衆とはなんだろう。ところで、僕の大学時代の恩師は、建築設計や都市計画は市民のために行うのだと事あるごとに言ってたのですが、僕はこの「市民」というのもよくわからない。わからないながらも、市民と大衆、それぞれの意味するところが微妙に違うということは感じとれます。

うちから歩いて10分くらいいくと倉敷駅前の中心街で、その一角にある喫茶店のマスターは父の同級生であり、また、かつてはプロとして、いまでも自主で映画を監督してたりと、なかなかに文化的な方です。そのマスターが遊びに来いというので時々父とともにお茶しにいくのですが、たいていは倉敷の文化行政への批判を聞かされます。「市民の手による文化政策を」とマスターは言うのですが、その市民というのが、やはり掴めない。

しかしそんな僕も活動するためにはお金が必要なので、シーズンともなれば書類に向かい、いかに自分の仕事が市民の文化的生活に寄与するか、などと嘘八百を並べ立ててきたのですが、わからないものはわからないままであって、後ろめたさも積もる一方であります。運良くお金をせしめても、結局「市民」がわからないせいで手が縮こまって動かない、仕方がないのでその動かない動けない自分の様子を描写するしか無い、というのが、言ってみればここ数年の僕の活動だったわけで、それ以前の、よく言えば野放図な、悪く言えば傲岸な仕事に着目してくれていた友人からは、励ましやお叱りなどをいただくこともあります。大衆演劇を見に行こうと決めた背景には、そんな事情もあったわけです。

気が向いたらまた書きますが、面倒くさいので書かない可能性もあります。