2013年11月20日水曜日

名前について

活動するにあたって木口を危口と変えてみたのは7、8年ほど前だったか、昔の知り合いに名を検索され東京でグダグダと演劇などやっている自分を発見されたくないな、でもより広くより多くのお客さんに来てもらうためには珍しい名にして検索トップに表示されないと、とか理由はいろいろあった気がするが、どれも大したことない。つまるところただの思いつき。

ここのところ、「搬入プロジェクト」スイスツアーのため現地の協力者とメールやSkypeを通して議論する日々が続いてるけど、彼らは漢字を使わないので俺を KIGUCHI と呼ぶ。ここに木口と危口の差異はない。普段偽名を使っていることについて彼らに説明しようとも思っていない。そもそも漢字と平仮名が混じる日本語の環境を説くのに俺の英語力は貧弱すぎるのだった。

ところで、 殆どの場合ファーストネームで呼び合う欧米の習慣に反して、なぜか俺は KIGUCHI と苗字で呼ばれている。でも、東京に、日本に居てもほとんどの知人友人が自分をキグチと呼ぶのだから、今さら海外の関係者に NORIYUKI を強いても変な感じがする。中には KIGUCHI がファーストネームだと思い込んでるやつも居そうなのだが、特に気にしていないから訂正もしない。

苗字という、自分が生まれるだいぶ前から連綿と続いてきたカタチに身を任せるのはそれほど苦痛ではない。苦痛どころか、たいへんに楽チンだ。個人として人生を拓くことを厭う怠惰さの現れかも知れないが、とにかく、安楽であることは間違いない。もちろんこんな振る舞いが許されるのは、ご先祖さんが大過なくその生を終えてきてくれたおかげだからであり、感謝に耐えない。今年のお盆に墓参できないのが甚だ申し訳ない。(年末には線香あげに必ず帰ります)

他方で、ファーストネームというのがある。これについては、むかし書いた文章があるので 転載してみる。

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なぜか突然名前のことが気になりきょういちにち考えていた。たとえばその名前のうちに「賢」の一字を持つ父はどうみても賢いとはいえず、とはいえ賢さに憧 れてはいるから無闇矢鱈に非効率的な努力を繰り返した挙句、いっときは国外逃亡までやってのけた人間だが、果たせるかな、ついに賢さとは無縁のうちに生涯 の終盤に突入しようとしている。

そんな父が何を思って息子(→気儘な放蕩生活の終わりを象徴する忌むべき物体)の名前に「統」の一字をねじ込んだのかおそろしくていまだに訊けていない が、いままでの人生を振り返れば、何かしら「統」の一字があらわすイメージと重なるような出来事に出くわしたときの、自らの名前がその場その場の判断に及 ぼしてきた影響は考えざるを得ない。もちろん否定的な意味で。

「賢」とはいえない父だが、「統」からはさらに遠い。親は当然子供の幸せを祈って名前を考えるのだろうが、この幸せというのが曲者で、「統」的な要素がな かったばっかりに自分の人生は最高に輝かしいものではなくなってしまった…というコンプレックスを反映していたりするんではないか。「統」があれば獲得で きる幸せを子供に託したかったのか。しかし子供もまた、「賢」を希求しながらしかし遠ざかり続けた父と同じ道を辿るだろう。

自ら望んだものではないにもかかわらず生涯つきまとう名前、祝福というよりは呪いに近い。いや、祝福と呪いに明確な差異などなかった太古を思えばそのよう な言い回しの違いなどはどうでもいい。漢字は預言者たちのツールだった。骨に刻まれた漢字を焼き、そのひび割れで吉凶を占っていた預言者たちはどんな名前 を自らに許していたのだろうか。


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名前に含まれる「統」の一字、その意味するところから逃れるべく、人気者を冷笑し周縁を気取ってきたのに、めぐりめぐって団体の主宰などやっている。これは一体何なんだろうか。いや、何のことはない、苗字という安定した兵站線を確保してるくせに、いざ前線に出てもロクに働こうとしない怠惰な兵士、それが俺だ。