2012年4月13日金曜日

【イベント告知】第4回 写生大会.

   

悪魔のしるし 駄催事 

第4回  第5回 写生大会】

※時間帯を少し変更しました(2012,5/2)
※思い出のページをめくってみたら第5回でした(2012,5/8 訂正) 
※画板予約は 前日5/10金曜正午まで にさせて頂きます(2012,5/9)


【開会にあたって】
目の前にひろがる生の有り様を
画用紙に写し取る…しかし

時間をともないながら
いきいきと変化する生を
凍った平面に写し取るなんて
そんなの不可能に決まってるじゃないか!

そう、写生とは
地上に残された最後の冒険!

……われわれが普段なにげなく使っている言葉、「みる」。
でも「見る」「視る」「観る」「診る」「看る」と色んな「みる」があります。
おフランス語でも「voir」「comtempler」「regarder」と様々。

まずはじーっとみてみよう。
目の前のそれがいったい何だったのか分からなくなるくらいに。
(脳内から全ての名詞を消せ!)
描き始めるのはまさにそこから!


【内容】
[みんなでとことんスケッチする]

制約を設けた特殊なコースをご用意してお待ちしております。
もちろん普通にスケッチするだけのご参加もOKです。
その「普通さ」に何の疑いもないのならば。

【参加費】
¥500(画用紙、その他案内準備の実費として)

※悪魔のしるし特製画板ご希望の場合は+¥500

【とき】
2012年 5/12(土) (雨天の場合は翌日5/13に順延)

10:30 集合・開会の訓示・画用紙画板などの配布
11:00 第一セッション 
12:00 昼休み
13:00 第2セッション
16:00 集合・講評会・表彰式
18:00 どっかの店で打ち上げ飲み食い

 
【ところ】
野毛山動物園(横浜市西区老松町63-10) ▶動物園公式サイト




【お申し込み】 
件名を「写生大会参加申込」とし
・お名前
・ご予約の人数
・当日のご連絡先
・悪魔のしるし特製画板(¥500)を希望する/しない 

を明記のうえ、以下のアドレスまでお申し込みください
akumanoshirushi(アットマーク)gmail.com


【準備するもの】
・気合
・謙虚さ
・画具
(水彩/油彩/クレヨン/鉛筆何でもOK)
・お弁当とか
(園内にも売店はあります)


【主催者側で用意するもの】 
・大会パンフレット
・四ツ切画用紙
・悪魔のしるし特製画板(要事前予約/¥500)


 【私たちも写生大会を応援しています】

人が好きになるものをデッサンしてはいけない。
そこにあるものをデッサンしなければならない。
(パリ在住リルケさん)


アントーニオ、デッサンしなさい。
アントーニオ、デッサンしなさい。
アントーニオ、時間を無駄にしてはいけない!
(フィレンツェ在住ミケランジェロさん)


そんなものはみな大したことでない!
絵画も、彫刻も、デッサンも、
文章、はたまた文学も、そんなものはみな
それぞれ意味があっても
それ以上のものでない。
試みること、それが一切だ。
おお、何たる不思議のわざか!
(パリ在住ジャコメッティさん)



【過去の写生大会の様子】







2012年4月4日水曜日

劇場の構図 1-3



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第1章-3 芸能空間の基本形

前回からちょっと間があいたけど、またボチボチ再開します。
前項1-2(+追記)では、芸能空間を、パフォーマーとオーディエンスの関わり合いを基準に、おおまかに三種に分けました(未分化・可変・分割固定)。

この項では、もう少し詳しく見ていきます。

芸能は、独りで行う特殊なものは除いて、基本的には集団で行われる 

つまり、集団を収容する空間のあり方が非常に重要。舞台上の出演者が、観客に対してどのような角度で相対するか。逆に言えば、観客はどの角度から見ることを許され、また禁じられるのか。例えば、教会でのミサや落語、ある種の手品などは背面からの視線を封じており、そこにはそれ相応の必然性があります。より説得的な伝達を狙うならば、空間設計は非常に重要な要素になると思います。

……今のところ劇場といえば対面型が殆どで、しかもその仕様や構成についてうるさくツッコむお客さんは、作品内容へのそれに比すれば、あまり居ません(空間については、劇団ではなく劇場施設の責任だと捉えられている)。暗黙の了解として事前にかかっているこの負荷を利用するのが俺は好きです……

では、ふたたび分類作業です。とりあえず先にババっと書きだしてみます。

1)包囲型
2)対抗形
1+2)扇形
3)道行型
3’)限定道行型  

と、大きく分けて3つ+α。 
ではそれぞれ見ていきます。

1)包囲型
文字通り、演者を中心としつつ観客がその周囲を取り囲むタイプ。円環、同心円、といったプリミティブかつ強力な構図を利用した形式です。課題書には、以下のように記されています。



・囲むという行為、或いは円環を作るという行為には、集団の心をひとつの超個人的な精神に結びつけ、自己を超越させる魔力を持っている

・円環は中心を持ち、また自らによって空間を内部と外部に分かつ。

・円環を作るという行為は、集団のエネルギーを外に向けてではなく、この高められた内部に放つのである。そのような円環の内部で、包囲されて行われる芸能は、個人を超えた巨大な力により根源的同一者へと回帰させられることになろう。

・観客に常に内省することを要求する芸能ではなく、むしろエクスタシーへと導くことを好む。

と、かなーり力のこもった筆致で解説されてて、どうもこの方は包囲型が好きみたいですね。俺も結構好きです。ただ、細かいこと考えだすと難しいんですよね。観客が多い場合、円弧の厚みを増すのか、それとも直径を拡大し円そのものをおおきくするのか、とか、考えだすと内容にも関わってくる問題が山積で、且つ、上にも記されているように、部外者や後からやってきたお客さんに対して優しくないという弱点が。これを解決するために客席に高低差を与え、すり鉢状にした円形劇場なるものがありますが、この高低差がまた新たな雰囲気をもたらします。円環型と円形劇場は安易に同じものと断ぜられません。

ところで、上記の解説で、個人的に気になる言葉があります。「エネルギー」とか「根源的同一者」とか。

円環型空間、ならびにそのような場で行われる芸能は、「描写」「写実」といった近代文学以降のテーマよりも原始的で、パフォーマーも、いわゆる「演技」をしてない場合も多々あります。でも何かをやっている。「何か」をやってるけど、「誰か」をやってるわけじゃない。

パフォーマーが自分ではない何者かを自身の体で表現する、その「何者か」は水平方向、連続した地続きの平面上に存在する、つまり自分と同じ人間を演じるのが、まあいわゆる「演技」だと仮定(あくまでも仮定ね)すると、円環型の場合、表現対象が垂直軸方向、つまり天上に存在する(ってことになってる)超越的な何者かであることが多いんじゃないか、と。ちゃんと勉強してないので飽くまでも想像なんですが。円環内部で発生するエネルギーは、最終的には垂直方向に昇っていくイメージがあります。垂直方向上の天とか超越者って、要するにアンタッチャブルな存在で、 だから描写なんて不可能で、そこから逆に謎のエネルギーと飽くなき工夫が投入されるという、いわゆる「否定神学(©東浩紀) 」の構図ですか。まあ、これも俺は結構好きで、偶像崇拝に陥る危険性を避けながら神へギリギリのピンポンダッシュを狙う、というね。

あとでまた触れると思うけど、今のところ包囲型の魅力を味わえるのはスポーツ観戦かなと思います。ただ、スポーツの場合、戦いあうチームなり個人も含むので、対向型の要素もあります。ここらへんものちのち分析していくことになると思います。

2)対向型 
包囲型と対象t系な性格を持つ対向型の特徴は、「メッセージ伝達に優れる」という点です。人間の目(視界)が前方にしか開けていない以上、背面というのは伝達にとって不要な外部となり、隠されることになります。



W・ガブラーは、こういた対向型の芸能空間について、演技者が自分の後を見せたくないために、壁の前に立って演技をする場合を引き合いに出して、これを「演出」行為の始まりとして捉えている。

このような演出の介在は、向かい合う二つの集団に、意識の上で幾ばくかの距離を生じさせることを意味している。むしろ対向型の芸能空間は、この集団間の距離、言い換えれば異質性を積極的に利用しようとするところがある。自分が何者であるかを常に意識することにより、向かい合う他者を理解させる仕組みを持つからである。

 「自分が何者であるかを」というのは、1)包囲型が不得意とされている「内省」ってやつですね。客席と舞台の分割、異質性への意識、に基づいてメッセージを発する。包囲型の垂直性に対して、ここでは明らかに水平性への志向があります。

そしてこれら2つのオイシイとこ取りを狙うのが

1+2)扇形型  です。



この型については、このレポート連載の後半で触れることになるので、ここでは飛ばします。

3)道行型
 これまで触れてきた包囲型、対向型、扇形、は劇場やスタジアムで鑑賞、観戦した経験がある方には馴染み深いモノだったと思います。ただ、忘れてはな らないのが、この道行型です。チケットを購入しシートに座して観ることに慣れているとつい忘れがちですが、この形式もひじょうに基本的、歴史的な芸能空間です。




筆写は、芸能の発生を神事に求め、諏訪の御柱祭や京都の祇園祭、高岡の御車山などを紹介しつつも、

しかし、これら道行型の芸能の多くが、神迎えの儀式から発達したからといって、この形態をとる芸能の全てが神儀性を持つということにはならない。むしろ、もっと広い芸能行為の基本形態として扱うことができよう。  

と してます。

歴史的視点を外し、純粋にその形態と効果に着目してみれば、このように言えます。

N・シュルツが、「通路に沿って途中で何が起こるかということがこれから到達すべき目標とすでに背後にある出発点との対峙によって醸し出される緊張感に付け加えられる」と述べているように、通路はそれに付随する諸要素を組織させる強い軸として、ひとびとに目標と出発点を想起させる力がある。

閉じた空間内で行われる芸能の多くが(物語形式を採用してるかどうかに限らず)その「始まり」と「終わり」を時間軸上に設定しているのに対し、道行型では、それらは空間座標上に設定されることになります。

余談かつ私事で恐縮ですが、拙作「搬入プロジェクト」は、大きく分類すればこの「道行型」といえるでしょう。ゆえに性格な上演時間の設定は出来ません。ゆるめの環境でやる分には問題ないのですが、きちんとタイムスケジュールが管理されたフェスティバルやイベント等ではそれを理解してもらえなくてちょっと苦労しました。今後もきっと苦労するな。



芸能を[TIME IS MONEY]の軛からもっと解放しようよー、みんな!

・・・・・・・・・・・・・・・・・
で、話を戻します。「搬入プロジェクト」では明確な終わり(搬入完了)が設定され、参加者の殆どは最初から最後までその場にいますが、多くの道行型芸能の場合、行列は非常に長く、またその行程も数キロに及ぶので、一箇所にとどまった観客は全ての行程を一度に観察はできません。

つまり、一観客の立場に立つなら、始点と終点は想起されるものの、意識的に潜在化され、表面的には行列という行為の継続のみが提示されることになる。

この考察は結構面白いと思うんですよね。何が面白いのか未だよくわからないし、自分の作品に落とし込めるかどうかも不明ですが、想像的な始点/終点が観客に内面化されてる状態ってのは、これもいうなれば一種の負荷で、何かに利用できそうだなと感じています。

で、このような長い長い道行型を区切ったものとして現れる形式が

3’) 限定道行形 です。
つまり、通常の道行型では潜在化していた始点と終点が、ここでは顕在化し、道行きの線も線分として限定されています。



我が国では、物事の導入や完了が重視され、儀式化する傾向があるとよく言われるが、演技者の入場や退場も線的な運動を持つ自立した芸能行為として扱われることが多く見られる。 

限定道行形の形態は、この他にも、能の橋懸りや歌舞伎の花道などのように、建築空間を構成する語彙として固定された型で作られているものもある。

著者はこのように↑記述するけれど、
道行型の亜種としての限定道行形、って見方に縛られると見逃すものがあるかも。「橋」「花道」って言葉が示すように、限定道行形は、その空間自体が何らかの形象を伴って設えられることが多いです。逆に考えれば、「橋」なり「花道」がなければ彼岸と彼岸は渡れない、そんな装置として考えることも可能です。いや、「橋」があることで彼岸の存在を意識させられるのかな?鶏と卵の話みたい。

道行、というほど距離はないけれど「門」にも同様の効果がありますね。これも一種の限定道行型装置としてもいいかも。




この項の、著者によるまとめは以下の通り↓

道行型、限定道行型の芸能空間は、このように始点と終点とが潜在化するか顕在化するかという違いはあるが、先に示した包囲型、対向型、扇形型という空間の静的な拡がりよって特徴付けられる一連の芸能空間の基本形に対して、運動、即ち時間の変化を基本とする動的な性格によって特徴づけられる芸能空間の基本型といえるだろう。

…なんだけど、サラっとしすぎで、俺はどうも引っかかる。
 限定通行型はもっと掘り下げる必要がありそう。
舞台でも客席でもない異質な空間として、更に分析してみたいです。

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2012年3月24日土曜日

悪魔のしるし新作参加者募集のお知らせ

この秋に新作を上演(たぶん演劇作品)することになったので参加者を募ります。
出演者だけでなく、演劇公演を打つ上で必要と思われる様々な仕事を様々な人と共に作りたいと考えています(が、基本的に演出家の独裁です)。
興味ある方は、以下の案内をご参考の上、お気軽にご連絡ださい。



【タイトル】
未定

【ジャンル】
おそらく演劇


【内容】
歴史とか家系、土地(site)を主題としたフィクション作品(ドキュメント成分含む)

【日時】
2012年 9/27~30(上演 4~6回予定)


【会場】
KAAT(神奈川芸術劇場)中小スタジオ

【演出】
危口統之(ちゃんとした戯曲を書くかどうかは未定)

【準備期間】
 5月~9月

■5月中…WS
オーディションを兼ねてワークショップ的な催しを数回開きます(基本的に週末)。
いわゆる演劇のWSではなく、単に絵を描いたりメシ作って喰ったり読書会したり、かもしれません。
絶対に毎回参加しなきゃ駄目、なわけではないです。
要は、演出家として各人のパーソナリティを知りたいというわけです。
参加料などは特にありませんが、実費を頂く場合があるかも知れません(画材や食材など)。 


◆WORKSHOP日程(5/2現在)
5/12 写生大会 野毛山動物園
5/17 稽古形式 森下スタジオ
5/28 稽古形式 森下スタジオ

■6月~7月…稽古
WS参加者の中から選抜し、或いはこちらからお声がけした方も加え、出演者+スタッフから成る製作委員会的な集まりを組織します。 
悪魔のしるしは、「危口の思いつき+公演ごとに集められたメンバーの協力」というかたちでいつも作品を作っており、今回も同様に進めていく事になると思います。

7月末をメドに、いったん作品を完成させます。

■8月…自主練
信じがたいことですが、演出家は 別の仕事でまるまる一ヶ月海外に行く予定です。
残されたメンバーの自発的な練習や準備を祈るばかりであります。
便利な便利なインターネットの力なども借りて、できることは可能な限りやります。 
これも本作に与えられた条件のひとつなので前向きに活用します。

■9月…仕上、本番
演出家が9月上旬に帰国したらすぐに仕上げ作業に入ります。
舞台美術や衣装といったスタッフワークもここから佳境になると思います。
小屋入りは9/24です。

【報酬】
 観客動員(チケット収入)や、現在申請中の各種助成金の成否次第ではありますが、そんなに立派な金額ではありません。
額面の多寡については、スタッフ/出演者に関わらず作品への貢献度から判断して主宰/演出家である危口が決定します(監修として制作担当田辺が就きます)。
なお、専業のスタッフ(舞台監督や音響、照明プラン+操作など)にこちらから依頼した場合は、なるべく正規のギャラをお支払いいたします。

【注意】
演出家危口は性格に幾分か問題が有り、それをひとことで言えば、
「他人に出会った時、ビビる もしくは 舐める、その二種類しか応対方法を持たない」となります。
ビビった相手には尻込みし、事態の進展を徒に遅らせ、一方で舐めた相手には無茶ばかり要求します。そして公演が終わる頃、徐々に敬意が芽生えてきます。こういうところは本当に良くないと思うので、この作品を作る過程で人間的に成長したいと思ってます(希望)。

【応募申込】
件名を「悪魔のしるし9月公演参加希望」とし、

・氏名(芸名がある場合は併記)
・連絡先 (メールアドレス、電話番号)
・所属(劇団、集団、フリーランスなど)
・職業(アルバイト、学生、会社員など)
・悪魔のしるしの活動を見たことがある/ない(ある場合は感想も一言)
・希望参加形態(俳優として、美術として、衣装として、自分でもわからない、など)
・得意分野(演技する、でかい声を出す、絵を描く、映像を撮る、編集する、料理する、寝る、、など「動詞」で表記してください) 

を明記の上、こちらまでご連絡ください↓
akumanoshirushi@gmail.com












2012年3月18日日曜日

搬入プロジェクトについてのオシャベリ

某所で「搬入プロジェクト」について話す予定なので
その原稿を書いた。ので転載。
口調については突っ込まないで欲しい。そういう場なんですよ。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■

へい どうも
俺は危口統之ってケチな野郎で
演劇とかパフォーマンスの演出家みたいなことをやってる。
演出家じゃなくて「演出家みたいなこと」だ。わかったかい?
おっと、それ以上は聞かないでくれ、説明は後回しだ。

今日はな、俺が思いついた面白い「遊び=PLAY」をみんなに教えるぜ。
こいつはPLAYつっても「演劇=THEATER」じゃないんだ。
文字通りのPLAYなんだ。
いや、見方によってはWORKとも言える。
WORKって言っても「作品」じゃなくて、「仕事」の方だな。「労働」っぽいのさ。
うーん、いや、演劇かも知れない、難しいな。説明しづらいぜ。

おっと、前口上が長すぎたな。
俺のくだらないお喋りを聴かせるよりも、
さっさとこのPLAYもしくはWORKの説明をしなきゃな。

さて、何から話そうか。
いままで俺がやってきた活動の写真やビデオを見せてもいいんだけど、
それは後回しだ。
なんでかって?
そうだな、その説明もしなきゃな。

結局、俺がダラダラしゃべることになりそうだな。
悪いけど聞いてくれ。これは大事な事だからよ、少なくとも俺にとってはさ。

俺が思いついたこいつは、いちおう名前もあって
「搬入プロジェクト」っていうんだ。(carry-in project)
これは……なんて言ったらいいんだろうな。
場合によっては、俺はこいつを演劇って言い張るし、
でも、単なる遊びかもしれないし、ゲームとも言えるし、
また別の見方をすれば彫刻、いや、「裏返された建築」とも言えるかな?
とにかく、ひどく曖昧なんだ。

何でこんなことになってしまったかって、それは、
この作品が先鋭的ってわけじゃなくて、むしろ、
異様に原始的だからさ。
君たちの身の周りのアーティストを見てみな。
みんな「自分の作品はどのくらい先の未来まで生き残るだろうか」、
そんなことに汲々としているだろう?
その気持ちは分かるぜ。俺だってそんなことを考えることもあるさ。
でもな、未来のことなんて知ったこっちゃねえ。

そこで、俺は発想を転換したんだ。
「過去の時代でもウケる作品を作りてえな」ってさ。
もちろんこんな考えは妄想だよ。でも、刺激的だろ?
「搬入プロジェクト」は、俺の勘では、そうだな、
旧石器時代の人間にもそれなりにウケると思うぜ。

いかん、また話が逸れてるな。
これは俺の悪い癖なんだ。
大学は出てるんだが、論文ってやつを書いたことがなくてね。
話をまとめるのが苦手なんだよ。
自分で一から作り上げるのも苦手なんだ。
つまり、もともとそこに在ったものにイタズラするのが得意ってことさ。
俺に仕事をさせたきゃ、俺の嫌がるタスクを強要してくれればいい。
うまいことサボりながら自分の好きなことをやるからさ。

俺は、言うなれば、「二次的な」存在なんだ。
居ても居なくてもいいけど、突然現れて、
みんなが「これしかない」って使い方をしてる物の別の使い方を、
イタズラっぽく提示して去っていく、そんな存在だ。

つまり演出家っていうのは「ちょっかいを出す」のが仕事なんだ。
少なくとも俺はそう信じてる。
硬直化したものを溶かす春の暖かさのようなものさ。

え?早く説明しろって?
悪い悪い、そうするよ。
ここからは写真やビデオも使おうかな。

説明は一瞬だ。すぐ終わるからよく聞いてくれ。

1 空間をひとつ選ぶ
2 その空間にギリギリ入る形状の物体を作る
3 みんなで力をあわせてその物体を運び込む

これで終わりだ。シンプルだろ?
シンプルすぎてバカみたいだ。俺もそう思うぜ。
だからもうちょっと補足したほうがいいかな。


まず
「1 空間をひとつ選ぶ」なんだが、
コツとしては、「出入り口は狭いけど内部は広い空間」を選ぶと面白くなるぜ。
別種のものでは「内部は広いけど出入り口は狭い空間」もイイね。
具体例を挙げるなら、倉庫や、公共施設のエントランスホールだな。
テートモダンのホールなんてサイコーに具合がいいぜ。
関係者これ見てたら連絡くれよ。


次に
「2 その空間にギリギリ入る形状の物体を作る」だけど、
これに関しては、いくつかのフェーズに分けたほうが説明しやすいな。
といっても簡単だ。大きく分ければ以下の三つだ。
「測量」「模型」「実作」。


まず 空間を決めたら現地に行って大きさを測量するんだ。
そしてそれをもとに図面を書いて、更に図面をもとにして模型を作る。


そして、模型が完成したら、とりあえず手元にある色んな小物、
例えばペンやタバコの箱なんかを使って、
どんな形状のものが搬入できるか試してみてくれ。

この段階である程度の見通しを得られたら、
次に、実際に物体を作る素材や、
それから予算、当日参加する人数を想定しながら具体的な設計を開始だ。
俺の場合は、日本で容易に手に入る木材や竹を念頭に置きながら設計した。
素材に関しては、地域によって価格や入手しやすさに違いがあるから、
自分たちのやりやすいようにしてくれたらいいよ。

あと、ひとつ大事なアドバイスを。
最初に俺が「これは演劇かもしれない」と言ったのを覚えてるかい?
演劇には戯曲が必要だろ?
その戯曲の指示に従って俳優は舞台上で動く。
じゃあ、「搬入プロジェクト」ではどうなるか?
この物体こそが戯曲ってわけさ。
そうだな、戯曲でもあるし彫刻のようでもあるし、
「scripture」なんて表現はどうだ?
サムい?

まあいいや、
戯曲と物体の共通点を挙げてみるから、ちょっと聞いてくれ。

・長さを持つ、つまり始まりと終わりがある。
・途中で折れ曲がったり捻れたり、と起伏のある展開
・それ単体でも魅力的だが、上演されることで息を吹き込まれる
・解釈によって上演は毎回異なったものとなる

まだまだありそうだけど、まあ、この辺りだな。
「搬入プロジェクトは演劇だ」ってことは分かってもらえたかい?
俺にとってはそのほうが都合がいいんだ。
これが俺の作った演劇作品なら俺は作者として報酬を請求できるからな!


さて、設計が終わったら実際に物体を作る工程に進もう。
さっきも言ったけど、ここで大事なのは素材と構法だ。
矛盾する課題をクリアしながら進めなきゃいけない。
つまり、
「頑丈な方がいいが、強度を上げすぎると重くなり運べない」
ってことだ。
かといって、軽くしすぎて運んでる途中で壊れるようじゃ話にならない。
この物体は戯曲でもあるんだからな。
上演の途中にもかかわらず戯曲が変わってしまったら困るだろ?
重量と強度のバランスに気をつけてくれ。

そして、物体を覆う外皮の素材も重要だ。
あまり想像したくないが、壁や天井に激しく衝突するかもしれないからな。
できるだけ柔らかい素材で全体を覆っておけば万一の場合も安心だろ?


さて、最後に
「3 みんなで力をあわせてその物体を運び込む」ことについての説明だ。
言うまでもないことだが、実際の作業にはそれなりの危険が伴う。
くれぐれも怪我しないように気をつけてくれよな。
そのために大事なのは、

・事前のストレッチ と
・声をかけあう ことだ。

作業開始前によく体をほぐしてくれ。
そして作業中はお互いに声をかけあって、力をあわせて搬入だ。
参加者それぞれの役割は物体の動きによって変わってくる。
周囲の状況にあわせて臨機応変に対応してくれ。
人もそうだけど、建物にもぶつけないよう気をつけてくれよ。
無事運び込めたときの爽快な気分は俺が保証するぜ。

さて、まあ、こんなもんだ。
こっからは、いくつか補足していこう。

みんなも薄々感づいていると思うんだけど、
搬入するためだけにバカでかい物体を作るわけだから、
作業が終われば物体は役割を終えてただのwhite elephantってやつになっちまう。
もちろん、そのまま展示してくれてもいいけど、それだって永久じゃない。
いつかは解体してゴミに出さなきゃいけないだろ。
だからさ、できるだけ自然素材に近いものにして欲しい、これは俺からのお願いだ。
そして、ちょっとした内部告発でもある。

というのも、みんなが普段から親しんでいる演劇や映画、それから建物が、
その製作過程においてどれくらいのゴミを出してるか知ってるかい?
そりゃもう尋常な量じゃないんだぜ。
俺は演劇だけじゃ食っていけないから、いつもは工事現場で働いてるんだが、
毎日大量に廃棄されるゴミを見てるだけで頭がクラクラするんだ。
工事現場から出るゴミだけで家が何軒も建っちまうぜ。

確かに芸術は贅沢品かも知れない。
だからって、無駄をそのままにすべきじゃない。
無駄、言い換えれば「余裕」だな。
余裕が必要なのは予算や材料じゃなくて、アートに関わる人間の精神だ。
「わざわざ入れにくいものを一生懸命作って、入れたら終わり」なんて
余裕がなきゃやってられないだろ?
そして運び込んだときに得られる感動がその余裕を満たしてくれるって寸法だ。

それから次、これは矛盾をはらんだ話になる。
俺は「搬入プロジェクト」のことを演劇でもあり遊びでもあり、労働でもある、って言ったよな。
これが「演劇」なら、俺は劇作家だ。
つまり「作品」ってことになり、俺の署名が入る。

でもさ、これまで説明したとおり、「搬入プロジェクト」は
ちょっとした余裕さえあれば誰でもできるものだ。
だから、俺の署名なんて必要ない。
俺がその場に居なくてもやりたい人がやってくれたらいいんだ。
現代風に言えば「オープンソース」ってやつだな。
となると、こいつは「作品」じゃない。
「作品」は「鑑賞」されるものだけど、
「搬入プロジェクト」は「参加」するものなんだ。
「鑑賞」じゃなくて「参加」だ。
それぞれの役割はあるけど、上下関係はないんだ。

俺としては、世界各地でみんなが勝手に「搬入プロジェクト自分だけバージョン」を
やってくれることがいちばんエキサイティングなんだけどさ、
一方で、自分の作品が金にならないと、俺はいつまでたっても貧乏だ。
こいつは難しい問題だ。みんなもそう思うだろ?

だからさ、余裕――この場合は金銭的余裕だ――がある奴は
ぜひ俺を呼んでくれ。つきっきりでその土地に合った面白いバージョンを考えるぜ。

そして、金のない奴は勝手にやってくれ!
でも、もし良かったら、俺に連絡をくれよな。
メールでアドバイスするし、君たちのバージョンを記録した写真やビデオなんかも観たいからさ。

とまあ、長くなっちまったが俺からの説明はこんなもんだ。
みんな気に入ってくれたかな?
だとしたら、さっそく具体的実行に向けて動いてくれ。
enjoy it!


劇場の構図 1-2 追記





劇場の構図 1-2 の追記

次項(1-3 芸能空間の基本形)に進む前に、前項(1-2 観ること、観られること)をまとめながら考えたことなど追記するです。


筆者清水裕之は芸能空間をその性質によって3つに大別してました。

1 未分化型 
みんな「する側」。相互に見せあいッこ。純粋に「観る」だけの人は居ない。
お茶会など。

2 可変型 
その時その時で「観たり/観られたり」。
ディスコ、盆踊りなど。

3 分割固定型
「する」「観る」が完全に分かたれ、それぞれが専門家してる状態。

で、これって政治のあり方と似てんじゃね、と。
つまり、上演空間はそのまま政治空間の縮図として読めるのでは、と。
representation (表象=代理)なんて言葉もありますしね。

俺なりに強引に当てはめてみれば↓

1 全員参加で意思決定する田舎の寄り合い
2 持ちまわりで代表を決める(代表制)
3 専門的政治家(国会議員とか) 
って感じでしょうか。


何が言いたいかというと、劇評とか読むとしばしば目にするんですが、「若いもんは政治に興味持たなすぎ」的な論調ありますよね。で、俺は思うんです。ホントそうなのかな?って。

確かに物語内容レベルで見れば(つまり戯曲だけ読めば)他愛もない身の周りの話が多かったりするのかも知れないのですが、いざ上演、って段になれば、「客席の設計」を通して、個々の作家/カンパニーの持つ政治意識が現れてるんじゃないかな、と。

例えばこんなのや↓



こんなのや↓



もいっちょ(自分のばかりでスイマセン)



まあ、どれもこれも戯曲らしい戯曲を持たない作品なので("作品"ですらないかもしれん)、いまひとつ説得力に欠けるかも知れないけど、ともあれ空間演出と政治意識はけっこう、というかダイレクトにリンクしてると思います。

前項で俺は METALLICAを引き合いに出しつつ、演者と観客の関係、そしてその現れである SNAKEPIT の例を挙げましたが、↑上に挙げた快快や悪魔のしるしのパフォーマンスも、観客との関係にこだわってるように思えます。つまり、実はけっこう政治的だと。

「政治」って言葉は大げさかもしれないから、ちょっと言い換えて、仕掛ける側とお客さんの双方によって発生する「シーン」とか「場」 への意識、とでもしておきますか。

快快は、よく「会場にDJとか居てクラブっぽい」と、なぜかシャレオツなイメージで括られてるけど、よくよく考えてみればこれスゴイことだと思うんすよ。何が、って「クラブ」的であることが。
 とりあえず現在のクラブ/ダンスカルチャーの起源的なアレ↓

セカンド・サマー・オブ・ラブ


俺はこの辺りの文化については素人なんで詳しいことは知らんですけど、それでも言えるのは、クラブカルチャーって、それまでみんなが前提としてた「作家性」「作品性」へのアンチとして生まれてますよね。ステージなんて無くて全てがダンスフロア。水平に広がる空間。間違っても「いと高きステージより下賜される偉大な演出家の意志!」っていう垂直的なイメージじゃないですよね。

「鑑賞」「作品」って概念は二つで一つのセット、どちらかが欠ければもう一方が成り立ちません。対して「参加」「出来事」という軸があります。で、俺はその二つのあいだをフラフラとさまよっているわけです。

これに関しては、「悪魔のしるし」の活動を開始する前にバンド活動をやってたことも影響してるかも。俺がやってたバンドはハードコアパンクというジャンルで、この界隈もクラブカルチャー程ではないけれど(しかしその起源のひとつと言えるかも知れない)、草の根的、非作家的、非作品的なシーンなんですね。バンド活動の各段階における非営利的な実践が重視されます。

ライブハウスにはいちおうステージとフロアがあるけど、フロアを埋めるのも(うちのバンドはそんなに埋められなかったけど/笑)、たいていはバンドマン。前項の区分に従えば(2)可変型に近い構図。

この話、もうちょい続けられると思います(てなわけで続く







2012年3月11日日曜日

劇場の構図 1-2



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第1章-2 観ること、観られること

空間を問う前に、まずは「芸能」というものについて簡単な定義が為される


「生身の人間が自分自身の声や肢体をメディアとして、或いは変身させて、演じ出すもの」

続けて、

その行為の根幹には演技がある。そして、この演技とは常に観客のまなざしを意識することによって成り立っている。

と規定される。
また、その反論として梅棹忠夫による「しろうと芸能」「独酌型芸能」「宴会型芸能」などの区分を紹介し、「観客なき芸能への志向」「個別化、個人化した主客一如の境地」の存在を認めつつも、これらもまた「何らかの規範を前提とする」限りにおいて「それを習得するという意味でやはり観られることを欲しているのである」とする。

つまり、

時間・空間の一断面ではひとりでするように見られる芸能でさえ、時空間の枠を広げてみると、すること、観ることとの関連を見出すことができるのである。

 と、芸能では観る側の存在が不可欠であり、いっけん不在なようであっても、どこかに、言わば<想像的な観客>の視点が設定されていると説く。演じ手と観る側の意識の交歓を経済活動に置き換えてみても、これは説得力があると思う。商売人や政治家は必ずしもいま眼の前にいる客にだけモノを商っているのではない。そこには想像的な未来の観客(消費者)が措定されていることも多々ある。

このような前提の上で、筆者は考察の口火を切る。

「芸能をする」という行為によって、時空間に人と人との精神の交流が広がるという現象に、より積極的な意味を与えたいと考える。そして、そのような集団との関わりという側面を重視するなら、ひとりでする芸能よりはむしろ、人間集団の結びつきが、ある時空間に凝縮されたものとして、集団で行われる芸能を考察の中心に据えるべきではないか。芸能の上演によって生成される空間の豊かさは、むしろここにあると思われるからである。

余談だが(というかこのシリーズたぶんずっと俺の余談ばかりになると思う)、友人でもある建築家、藤原徹平氏(フジワラボ代表+隈研吾建築都市設計事務所 兼務)は、「アクティビティによって質的変化する空間に興味がある。例えば電車の中とか」と俺に語ったことがある。もうだいぶ前の話なので本人も忘れてるかも知れないが、その後の彼の、建築設計だけに留まらない多様な活動を見るにつけ、その心意気をいまだ保持しているように思える。今後の活動も引き続き応援したい。

閑話休題。
(どーでもいいけど「閑」って漢字いいよね。閑谷学校とか字面だけでグッとくる)

さて、演者+観客によって構成される上演空間を、その質によって筆者は三種に区分する。以下、列挙してみよう。


1 
仲間内で楽器を演奏したり、或いはお茶会を行うような場合である。ここでは参加者すべてが「する」行為の当事者であり、すると互いにその行為を見合っている。即ち、観ることと、することは、成員相互に同じように作用しあい、トータルな芸能空間は、同室なひとつの集団によって行われる。従って、する行為のための空間も、観る行為のための空間も分化せず、融合された状態に置かれている。






次に考えられるタイプは、自らすることに意味を持ちながらも「することを観せる」「することを観る」という行為が表に現れくる場合である。具体的な例としては、今日のカラオケやディスコのようなもの、または盆踊りのようなもの、あるいは過去のものでは、バロック時代の王宮の仮面舞踏会などが挙げられよう(中略)そこでの芸能行為は、空間的にすることを主体とするグループと、観ることを主体とするグループに分かれる傾向が窺える。ただし、時間の経過を考慮に入れると全体としてはそこに参加する成員相互の基本的な関係は同質なのが特徴である(中略)こうした集団の中では仮に観るだけの存在、するだけの存在が生じた場合、それはむしろ異質な存在として集団からは排除される傾向すら持つ。









いわゆる「観る芸能」と呼ばれるものである。ここでは、トータルな芸能行為は、芸能をする行為と見る行為の二つに分極化され、それぞれ演技者と観客という、異質な集団によって担われる。職業芸能集団によって行われるほとんどすべての芸能が、この範疇に属するといっても過言ではあるまい(中略)第1のタイプでは「観ること」よりもむしろ「すること」のほうが強調されていたのに対し、「するのを観せ」「することを観る」という集団相互の関係が全体の芸能行為を強く規定し、「すること」自体の意味は「する」側の集団固有の問題とされ、観客も含めた芸能空間全体を支配する意識には至ることがないのが特徴である。






といった具合である。
ではこれらを踏まえて気になることをポツポツと呟いていこう。


これらの区分(1→2→3)は、そのまま芸能を含む文化一般の変遷にある程度重なるのではないだろうか。例えば住宅建築というものを例にとってみれば、

地域共同体成員によるセルフビルド

得意な技術を持つ専任者の登場(セミプロ、半農大工など

住まい手と建設業者(建築家やゼネコン)の分離

といった具合である。
批評というものが成立するのも(3)の過程からだ。



(2)の区分で例示される盆踊り、ディスコ、カラオケ、舞踏会などが総じて、いわゆる「ナンパスポット」であるのは興味深い。よってこの場合、お気に入りの相手をゲットした際には、空間そのものから二人して「フェイドアウト」することも可能であり、空間そのものがオープンエンドである。つまり「作品」として鑑賞されるのではなく、むしろ参加者の出会いの場としての側面が強い。上演される芸能は、次のステージのための一つの契機として設定されている。むろん、発生当初からナンパが前提とされていたわけでは無いと思うのだが、空間の緩さが出入りのし易さをもたらし、そのままナンパの場への移行を可能にしたのではないか。

これは後々にも触れられることだが、神に捧げる儀式としての芸能の場において、より優れたパフォーマンスを発揮したものが栄誉に浴す(古代南米文明では生贄として首をはねられたりする 笑)という習慣の名残なのかも知れない。


(1)(2)に共通しているのが、「優れたパフォーマンス」のイメージが全員に共有されていることだ。明確な観客が居ない代わりに、「理想的な芸」がひとつの規範として場を支配しており、その境地への隔たりで芸の優劣が判断される。多様な参加者が集まる場においてはこのケースは成立しにくいだろう。


再び課題図書の引用に戻る。
筆者は現在においては上演にしろ研究にしろ(3)のケースが支配的であること指摘する。

今までの芸能空間の分析は、完成された芸を持つ職業的芸能集団を対象とする事が多かったせいか、どちらかというと、第三のタイプを基本として研究されてきた。ギリシア・ローマ演劇をはじめとして、能舞台や歌舞伎劇場のように完成度が高い、固有の劇場という型を持つ空間の考察では、観る側と演じる側は、明らかに異質な存在として扱うことを前提とされてきた。こうした扱いは、無意識のうちに、芸能空間の分析を能動的な行為者としての演ずる側の空間、即ち舞台に比重をかける傾向へと繋げがちであった。


観客の空間は、演技の空間に付随するものとして消極的に扱われ、舞台の形態との積極的な関わりを論じたり、観る意識の違いによって観る側の空間がどのように変容するか、といった観点に立って論じられることは少なかった。

筆者はその原因を、近世以降一般化したプロセニアムステージ型劇場、ならびにそれを基盤とする作品上演の隆盛に求め、返す刀で批判する。

しかし、本来、芸能空間というものは、そこに参加する全ての人々の意識や行動が互いに作用しあい、その相互作用の中からトータルに形成されるものである。

そして、この観点から言えば救いようのない(3)の形態についても、

あとで詳しく観察するように、舞台と客席は、様々な関わりにより互いに影響を及ぼしあうもので、決して一方だけで完結した空間ではありえない。

 と、次項から始まる、より具体的な芸能空間形式への考察を予告する。

■■
 例によって、ここからは独り言。

この本を読み進めながら思い出してTwitterに書き込んだのが、アメリカを代表するロックバンド(メタルバンド)であるMETALLICAの試みだ。

まずはこの写真+動画を。





彼らが一介のヘヴィメタルバンドから世界の頂点に君臨する存在に躍り出るきっかけとなった大ヒットアルバム「METALLICA(通称:ブラックアルバム)」発売後のツアーの写真である。舞台が観客席と接する辺を可能な限り増やしつつ、またその内部に「SNAKE PIT」と名付けられた特別席を設えた特異な設計だ。

(撮影されたのは90~91年くらいだと思うが、このツアー確かとんでもなく長かったので、もうちょっと時代が下るかも知れない)

以下、自分がTwitterに記した言葉をそのまま貼り付ける。


引き続き「劇場の構図」を読み進めているが、ここで意外に重要なのがMETALLICAだ。ロックコンサートの空間構成に関して一時期の彼らは様々なかたちを試みていた。これは元々ファンとの結びつきを重視するインディーズシーンから出発した彼らならではのやり方だろう。

 ネット以後、それは動画配信などの方向へシフトしていったが、その直前、90年代初頭に彼らが提案した[SNAKE PIT]は当時の自分にも衝撃だった

巨大化するバンドのせいでインディーズ文化から離れつつあった彼ら、の出した誠実な回答がこのSNAKE PITなのだと思う。

民衆芸能から生まれた[劇場]がその後ワーグナーの手によって完全に「去勢=芸術作品化」される過程を、METALLICAもまた反復している。

高校生当時危口くんはヨダレを垂らしながら憧れてたんだよコレに。ちなみに全体的な舞台-客席の関係も完全包囲型です。360°対応のために確かドラムセットを2~3つほど置いていたと記憶している。

「劇場の構図」の論に従えば、同心円の中心に最も興奮度の高い要素を配すのが包囲型のセオリーなので、ここに自分たち演奏者ではなくコアなファン(確か、ファンクラブ会員から抽選で選んでたはず)を招き入れるというのは、態度表明として非常に説得力あるものとなってますね

「劇場の構図」が設定する(1~2~3)の芸能空間図式の区分で言えば、このSNAKE PITは、(2)と(3)の間にある微妙な境界に位置している。

80年代初頭、米国ではマイナーだったヘヴィメタルというジャンルは、まだ大きな、商業的なシーンを持ち得ず、テープトレーディングやファンジン発行など、熱心なファンによる草の根的な活動に支えられていた。自らもまたそのような熱狂的メタルマニアだったラーズ・ウルリッヒ(METALLICAのドラム奏者、ヴォーカル/リズムギター担当のジェイムス・ヘットフィールドと共にバンドのリーダー的存在)は、その後バンド活動が巨大化するに連れて失われていく草の根インディーズ的な連帯との繋がりを諦められず、ひとりで頑張って模索し続けていたのだろう。その結果としてのSNAKE PITなのだと俺は考える。泣けるじゃありませんか。実に泣かせるじゃありませんか。

上↑ででっち上げた、住宅建築の流れをここで当てはめてみると、

 好き者同士が愉しむ民俗芸能だったメタル
(演奏場所は小さなライブハウス、ガレージなど。演奏者/聴衆が未分化な状態)
冴えわたるパフォーマンスをするバンドの登場
(部族内の英雄として祝福される)
大ヒットによってヌルい観客もライブに来るようになる
(昔からのファンは面白くない)

→その救済法としてのSNAKE PIT(コアなファンだけが入場を許される)

ってことになるだろうか。

SNAKE PIT に関しては例として面白すぎるので、今後も引き合いに出しつつ分析していきたい。

次回 1-3 空間芸能の基本形 に続く。

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劇場の構図 1-1



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第1章-1 はじめに



まず冒頭で


民俗芸能が現代的な演出に翻訳されて、大劇場で披露される機会が非常に多くなった。

と、現代の芸能の状況を紹介しつつも


なぜか、街路や広場では生き生きとしていたそれが、近代的な設備の整った劇場に拾い上げられたとたんに、輝きを失い剥製のように冷たくなってしまうのである。

と、筆者はそこに違和を表明する。ことは民俗芸能だけではない。小劇場界隈で活動する我々も他人ごとではない。

百人程度しか観客を収容できないような小さな劇場で、迫力満点の演技を行い、われわれを虜にした新進気鋭の若手劇団が、認められて大劇場に進出したとたん、粗暴な欠点ばかり目立つようになる


これは、自分や自分の知り合いの活動を振り返ってみても思い当たる節が多々ある。なぜこのようなことがおこるのか。筆者は以下のように推察する。

現代舞台芸術であっても、民俗芸能であっても、演じることを意図するあらゆる芸能行為には、どうもそれに最もふさわしい場というのがあるのではなかろうかと思われる。



優れた建築物が、その寄って建つ敷地の条件、状態、ひいては周囲の環境を読み込んだ上で設計されているのと同様に、空間芸術としての側面を持つ芸能もまた、それが行われる場への配慮なしには成立しえないのではないか。いや、配慮というだけでは弱い。作品上演は空間との結託なしに盛り上がることはない。例えば、

60年代の後半に衝撃的に登場し、われわれを圧倒した、佐藤信の「黒テント」や唐十郎の「赤テント」の迫力は、戯曲の優秀さや社会に対する問題意識の鋭敏さ、或いは役者の力量などに加え、彼らが最もふさわしい場、即ち、テント空間を発見し、それを縦横無尽に使いきったところが大きい。

 と、テント芝居における上演空間の熱さを紹介する。



 80年代に入った今日(※この本の初版は1985年)、佐藤や唐の生み出した新しい形態の演劇は、現在ではひとつの演劇ジャンルとして定着し、小劇場ブームと言われるように、多くの観客を動員できる一種の文化産業にまで成長している。しかし活動が一般化すればするほど、当初の強烈な空間意識はどんどん希薄化する一方である。

 このあたりの状況は、演劇に触れたのが90年代中期以降である俺にとっては、いまひとつ実感がない。テント芝居はその構法上、自ずと空間規模に限度を持つが、それにこだわらない多くの人気劇団は活動の場を小劇場から更に大きな空間へと移していったようだ。例えば野田秀樹率いる夢の遊眠社は、その活動のクライマックス、あの代々木体育館で上演したと聞く。さすがに大規模過ぎて想像しにくいが、ここまでデカイと逆に盛り上がったような気もするが実際はどうだったのだろう。


当時俺が所属していた学生演劇サークルの稽古はかなり体育会系というか、ストレッチや筋トレ、発声練習やストップモーションなどに重きを置いた、身体能力重視のものだったから、その意味で、志向として「ボロ(小劇場)は着てても心は錦(大ホール)」だった。

つまり、「演劇活動におけるサクセス=観客収容能力の増える大きな空間への進出」と信じられていた時代の名残のある中で俺は活動を開始したのだった。先輩が意識してたのは第三舞台やキャラメルボックスだったから、規模としては紀伊国屋ホールあたりが念頭にあったのかも知れない。

(俺は少し上の世代であるジョビジョバなどに感情移入してたな~。しかし直後にチェルフィッチュに出会い上演空間への意識が激変するのだった)

ちなみにこの学生サークル、何の偶然か建築学科の人間が妙に存在感を発揮しており、 公演のたびにテントを建てていた。上演空間に対する俺の執着(アマチュアリズムやセルフビルドへのこだわり)もこのあたりが原風景となっているのだろう。




















話が逸れた。元に戻そう。筆者は現代の劇場空間への疑義を以下のように提示する。

 昨今の演劇活動は、彩り豊かで美的な情景を見せてはくれるが、上演の場であるホールに対して、なぜそこで演じるのか、そこがほんとうに最もふさわしい場なのかという積極的な問いかけをするものが、めっきりと減ってしまったようで寂しい。これは舞台芸術の想像力が萎えはじめているからかも知れない。しかし、その背後には、芸能を創り上演する立場の人々と、劇場という場を創る建築家との直接的な精神交流が衰弱し、ほとんど共通の言葉を持ちえなくなっているという、不幸な事態の進行をも見ることができる。

ここまでで課題図書「はじめに」のまとめは終わり。
以下は俺の勝手な独り言。


先程も触れたようにこれが書かれたのが1985年、そこから既に四半世紀が過ぎているわけだが、事態は改善していないように思える。いや、むしろ複雑化してる。これは、演劇作品や演劇人の成功モデルが変化したせいでもある、と推測する。

「小劇場→大ホール→映画やテレビの仕事でゲットマネーしつつ舞台にこだわる」

80~90年代における演劇人のサクセスストーリーはこんな感じだったように思う。これが、チェルフィッチュ以降、

「小さくても優れた作品→そのままの規模で海外をツアー」

に変化した。もちろん皆が皆このモデルに追従しているわけではないけど、少なくとも自分の身の周りではそのようなアプローチを採るカンパニーが増えている印象がある。例えば快快は先ごろ上演した「アントン・猫・クリ」において、出演者を少数に絞り、舞台美術等も簡易なものに留め、海外のシアターやフェスティバルへの売り込みやすさ、持ち運びやすさをアピールしていた。
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追記(3/18)
↑とはいうものの快快は前作「SHIBAHAM」に於いては、無謀ともいえる多彩な仕掛け+膨大な事前準備を踏まえたプロダクションを試みており、「アントン~」は、その経験もあっての返し技、と言える。
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グローバル化による交通の活発化と、その一方で同時進行する「趣味の共同体」「解釈共同体」のセグメント化がこのような状況をもたらしていると推測する。

 それぞれのモデルが独立しているのならばさして問題はないように思えるのだが、両者がクロスしたとき事態は厄介なことになる。これは演者だけでなく、作品をセレクションし、お膳立てするプロデューサー側の立場の人間にも再考を促したいところだ。一度に多くのお客さんを呼び込んで自身の注目する作品・作家を紹介したい欲望をそのままにしておくと、空間と作品の相性の悪さが露呈し、結果として作品本来の魅力を削いでしまうことがあるのではないか。

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次回 1-2「観ること、観られること」に続く→

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