縁あってここ最近は吉祥寺に通い先達の教えを請う日々である。
http://www.scot-suzukicompany.com/kichijoji/pdf/suzuki_school.pdf
その仕事は何から何まで筋が通っており、これは狂気だと思った。
病的な真っ当さに貫かれている。ならばそれは健康ではないのかと問う声もありそうだが、完璧な真っ当さというのは反自然的なのだ。例えば砂糖、味の素。味覚への刺激のためだけに精製されたあれらの品々は自然界には存在しない。ひたすら人間による人間の人間のためだけのものである。この精製というのが、人間独自の営みであるし、芸術作品もまた精製されるものである。
というようなことは、私は以前からヴァレリーの言葉を通じて学んでいた。
などなど。詳しくは https://twitter.com/Valery_BOT を参照されたし。
自分にとってSCOTの仕事はヴァレリーの言葉を裏打ちするものであったといえる。
だから、表面的なな好悪を超えたところで興奮した。
見せる対象として、まずは神があり(だから演技は中心性・正面性を意識したものになる)、時代がくだると近代的市民像があり(そして演技には横への意識が加わる)…と鈴木忠志はまこと明晰に歴史を説いてみせた。ならば御自身は一体何者に見せようとしているのか…とは、ついに聞けずじまいだったが、もしかしたらそれは「テスト氏」のような、ポスト近代的市民だったのかもしれない。そういえばあの奇妙なテキストは、語り手がテスト氏と劇場で出会うシーンから始められるのだった。
一方で、すべての細部が正しく全体に奉仕するその真っ当さをある種の機能主義(ファンクショナリズム)として見做すことが許されるならば、それに対する批判もありうる。たまたまここ数日読んでいた本だが、妙に気になる箇所があったので引いてみる。文中の「建築」と「演劇」と読み替えても差し支えないと思われる。
一方ヘゲモニーをめぐるたたかいでの機能主義の敗北は、俗な言い方をすれば彼らが詮索しすぎたとか、余計なことに首を突っ込みすぎたところに原因がある。彼らは、人間とは、社会とはと問い詰めていった窮極に建築の「標準」があると考えたから、近代の構造からすれば本来自由の領域に任せておくべきところを、具体的に集団の在り方や人間の生活をいくつかの範疇に分解し再編するといった余計な手出しをしたのだった。また、彼らは浪漫的なるがゆえに新たな社会や人間を想定できず、たとえば中世集落に範をとった。今日的であることを強く意識するがゆえに現在時のものの在り方を追い、人間像は過去に遡行するという奇妙な分裂を起こした。機能主義的な態度からでてくる建築は、いずれにせよ拘束性の高い建築、ある空間領域での行為が指定される建築である。なぜなら建築の決定因に関係性が関与してくるからである。近代社会の延長としての現代社会にあっては、この行為の仕方の先験的な指定はタブーである。
(均質空間論 / 原広司)
あらためて書き写してみると、そのまま「演劇」に読み替えるには無理のある箇所もあるが、それでも舞台上で何が起こるのか、何を行わせるのかが一種の設計行為であるならば、かなりの程度この批判は有効なように思われる。
続く
http://www.scot-suzukicompany.com/kichijoji/pdf/suzuki_school.pdf
その仕事は何から何まで筋が通っており、これは狂気だと思った。
病的な真っ当さに貫かれている。ならばそれは健康ではないのかと問う声もありそうだが、完璧な真っ当さというのは反自然的なのだ。例えば砂糖、味の素。味覚への刺激のためだけに精製されたあれらの品々は自然界には存在しない。ひたすら人間による人間の人間のためだけのものである。この精製というのが、人間独自の営みであるし、芸術作品もまた精製されるものである。
というようなことは、私は以前からヴァレリーの言葉を通じて学んでいた。
本質的なものは、生命に逆らう。
— Paul Valéry (@Valery_BOT) 2013, 11月 13
などなど。詳しくは https://twitter.com/Valery_BOT を参照されたし。
自分にとってSCOTの仕事はヴァレリーの言葉を裏打ちするものであったといえる。
だから、表面的なな好悪を超えたところで興奮した。
見せる対象として、まずは神があり(だから演技は中心性・正面性を意識したものになる)、時代がくだると近代的市民像があり(そして演技には横への意識が加わる)…と鈴木忠志はまこと明晰に歴史を説いてみせた。ならば御自身は一体何者に見せようとしているのか…とは、ついに聞けずじまいだったが、もしかしたらそれは「テスト氏」のような、ポスト近代的市民だったのかもしれない。そういえばあの奇妙なテキストは、語り手がテスト氏と劇場で出会うシーンから始められるのだった。
一方で、すべての細部が正しく全体に奉仕するその真っ当さをある種の機能主義(ファンクショナリズム)として見做すことが許されるならば、それに対する批判もありうる。たまたまここ数日読んでいた本だが、妙に気になる箇所があったので引いてみる。文中の「建築」と「演劇」と読み替えても差し支えないと思われる。
一方ヘゲモニーをめぐるたたかいでの機能主義の敗北は、俗な言い方をすれば彼らが詮索しすぎたとか、余計なことに首を突っ込みすぎたところに原因がある。彼らは、人間とは、社会とはと問い詰めていった窮極に建築の「標準」があると考えたから、近代の構造からすれば本来自由の領域に任せておくべきところを、具体的に集団の在り方や人間の生活をいくつかの範疇に分解し再編するといった余計な手出しをしたのだった。また、彼らは浪漫的なるがゆえに新たな社会や人間を想定できず、たとえば中世集落に範をとった。今日的であることを強く意識するがゆえに現在時のものの在り方を追い、人間像は過去に遡行するという奇妙な分裂を起こした。機能主義的な態度からでてくる建築は、いずれにせよ拘束性の高い建築、ある空間領域での行為が指定される建築である。なぜなら建築の決定因に関係性が関与してくるからである。近代社会の延長としての現代社会にあっては、この行為の仕方の先験的な指定はタブーである。
(均質空間論 / 原広司)
あらためて書き写してみると、そのまま「演劇」に読み替えるには無理のある箇所もあるが、それでも舞台上で何が起こるのか、何を行わせるのかが一種の設計行為であるならば、かなりの程度この批判は有効なように思われる。
続く