だいたい章の心のなかには、古い大きな木の方が、なまなかの人間よりよっぽどチャンとした思想を持っている、という考えがある。
厳密な定義は知らぬが、いま横行している思想などはただの受け売りの現象解釈で、 そのときどきに通用するように案出された理屈にすぎない。 現象解釈ならもともと不安定なものに決まってるから、ひとりひとりの頭のなかで変わるのが当然で、 それを変節だの転向だのと云って責めるのは馬鹿気たことだと思っている。
皇国思想でも共産主義革命思想でもいいが、それを信じ、それに全身を奪われたところで、 現象そのものが変われば心は醒めざるを得ない。敗戦体験と云い安保体験と云う。 それに挫折したからといって、見栄か外聞のように何時までもご大層に担ぎまわっているのは見苦しい。 そんなものは、個人的に飲み込まれた営養あるいは毒であって、 肉体を肥らせたり痩せさせたりするくらいのもので、精神自体をどうできるものでもない。
章は、ある人の思想というのは、その人が変節や転向をどういう格好でやったか、やらなかったか、 または病苦や肉親の死をどういう身振りで通過したか、その肉体精神運動の総和だと思っている。 そして古い木にはそれが見事に表現されてマギレがないと考えているのである。
章は、もともと心の融通性に乏しいうえに、歳をとるに従っていっそう固陋になり、 ものごとを考えることが面倒くさくなっている。一時は焼き物に凝って、 何でも古いほど美しいと思いこんだことがあったが、今では、 古いということになれば石ほど古いものはない理屈だから、 その辺に転がっている砂利でも拾ってきて愛玩したほうが余っ程マシで自然だとさとり、 半分はヤケになってそれを実行しているのである
藤枝静男「木と虫と山」
先日研究者/映像作家の菅俊一さんとお話してたら、石が最強なんじゃないかということになった。といってもこれは木や草に比べてというのではなく、ログの保存のことである。いまわれわれは日々膨大な量のログを記録し続けているが、その実態はただの電子情報の集積で、いざというときこれでは心もとない。その点、石ときたら万世を越えて保存する。
「刻石」
そんな石の「最先端」は、樹のような、伸びていく先の細い先端ではなく、まいにち少しづつ削られていく表面全体のことである。伸びていくんではなく、削られていく、消えていくのが石の形態推移の基本である。
しかしそろそろデータ保存を担う液体が出現しても良さそうである。それを飲みたい。