2013年12月26日木曜日

続き / 創意のふるさと

シェアされたり何だりで昨日の記事を(この過疎ブログにしては)沢山のひとに読まれたようで、今日も劇場に行くと、いきなり「読んだよ」と言われたりして肝を冷やした。しかしこうしてインターネッツに記している以上、そうした可能性は常にひらかれているのだし、いまさら恥ずかしがっても仕方がない。それに、さかしらに原広司など引いてきて巨匠にイチャモン付けようってのか、なんてつもりも毛頭ない。

でも、イチャモン付けられるってのは、ある意味リスペクトの裏返しかもしれない。確固たる不動の柱がそびえ立ってるおかげで、自分の位置を測れるというか。名作/達人の放つ光に照らされてみずからの立ち姿を知るというか。アヤフヤな光じゃ、こちらの輪郭もよく分からずじまいだし、やっぱ強いもんに出くわすことが自分を知る一番の方法だ!と再確認した次第。で、今日書こうと思ったのはそういうことではない。

鈴木忠志はみずからの藝術の達成のため、より集中できる環境を求め利賀に拠点を移した。静かな、邪魔立てするものがない山中に篭った(もちろん現実には、村人たちとの、ときには誤解も含めた交流があった / その辺りの話も面白かった)。信念と方法を持つ人には集中できる環境が必要なのだ。

いっぽう我が身を振り返れば、これだというアイデアや仕事ができたのは、いつも決まって誰かの眼を盗むようなシチュエーションに於いてだった。その原風景は小学校時代、授業中に教師の目を盗んで描いていたマンガである。そんなことを30余年続けてきたせいで、この悪癖はもうすっかり体質になってしまった。いわばこれが俺の「クリエイティビティのふるさと」である。だから、

俺に環境を与えるな!
いや、じゃなくて、とりあえず環境を与えろ!
そうしたら全ッ然別のいい仕事をやってみせるから!
てなもんである。

冒頭に書いた「ブログを読まれること」についての言い訳と同じで、バレるかも、怒られるかも、と冷や冷やしながらやるようなのが何故か乗れる。この心理を見事に活写したのが深沢七郎の小説「絢爛の椅子」で、この掌編については同タイトルの批評を若かりし頃の金井美恵子も(カフカ「判決」なども絡ませながら)書いていて、これがまた面白いんだ。

いま、恐るべき重力増幅装置(ホットカーペット)に捕らえられているので、本棚まで行くことができない。興味ある方は古本屋とかで探して読んでみるといいと思う。



巨匠のありがたいお話を聴くフリをしながら描いたラクガキを載せておく







(続く)